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政治と宗教について考えてみた。

宗教と政治

政治と宗教が一体化するのが何故恐いのか。
政治と宗教は何故分離されなければならないのか。

憲法第二十条には以下のようにある。
『信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
② 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
③ 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。』

「信教の自由」とは内心の自由の保障であって、であればこそ国家はそれを侵してはならないし、内心のことであるから国家といえども侵しようもないのである。
 逆に、信教の、信じられている「教(おしえ)」の側即ち宗教が政治に手を出してはならない。それは現実に対する有効性を求めていく政治に対して、どんなに些細であっても宗教によって「コントロールされた心」が関与すれば、その有効性を見極める議論の過程に柔らかさが欠け、捻れが生じるからである。眼前の諸問題を冷徹に見つめ、議論を重ね利害を調整し、現実の世界で有効であると判断した施策を求め実施していく政治に錯誤を生じさせるのである。
 政治とは、前述したように「現状において最も適正と合意される」策を求め続ける営みであり、そこに完全な解決に至るとの保障はない。つまり、政治は完全なる正解が与えられない営みでであり、本来的に限界を見つめ続ける営みである。そのような営為に堪えたときに、現実における有効性という崇高さが生じるのである。
 然るに、宗教は現実にはなんの有効性も持ちえない。歴史を振り返ってみよ。宗教が現実に対して有効であったならば、人間が愚かな戦争を繰り返し経験しただろうか、飢餓で死んでいく人々があり得ようか。だからといってその責を宗教に負わせるべきではない。その責は政治が負うべきであり、それを負わせられるのが政治のすごさである。ならば、なにが宗教に求められるのか。政治がどこまでも相対的な現実世界おいて最適解と判断されるものを求めていくとすれば、宗教は、その相対的な現実にさらされ続ける人間の魂に救いをもたらし平安を与える、そこを担っているのである。神がたとえ人間が想定した物語であったとしても、それを信ずることで、現実の中で傷み苦しみ続ける人間の心は救われ、心の平衡を保ち、安寧を得られ、明日を迎えられる。想定された全能の神は、人間の魂の最後の砦なのである。そこに宗教の崇高さがある。
 その宗教が政治に手を出しても、当然完全なる解決など導き出せないのであり、常に相対化の波にさらされる。時には命を相対化することすら求められる。コロナがいい例だ。仮りにワクチンをウィルスから逃れる唯一の手立てだとしよう。そのときに、どの年齢層から接種するか、地球上のどの民族から接種するか、これはまさに現実の中での選択である。おそらくここには根拠となる善などないだろう。それでも議論を繰り返し、現実の利害を調整して当面はこれが最善手との合意のもと判断を下し、それが完全ではないとしても当座の合意された正義を断行せねばならない。それが政治である。だから、その議論の過程に宗教が顔を出せば、いたずらにことを錯綜させ間違った方向へねじ曲げかねない。「教(おしえ)」の枠内では、さも理想の善が現出し素晴らしい解決が見いだされるかのような錯覚をいだかせても、現実にはひとりよがりの善を振りかざすこととなり、即ち排他的な独善となるのである。
 我々は政治が宿命的に負っている当座の最善手という限界に堪えねばならない。そこに政治のすごさがあるからだ。堪えねば、政治がぎりぎりの最善手を追求することから免れ、安易な方向へ堕落する。
 己の限界を自覚してどこまでも「よりよい」策を求める続ける、それこそが政治の凄さであり、それ故に謙虚であらねばならないということを忘れている政治家。 心の領域でのみ架空の全能性に身を委ねることが許されているということを忘れ、現実においても全能だと思い違いをし、現実の相対性へ侵食してくる似非宗教。 この両者は憂慮に堪えない。
 憲法に戻れば、「信教の自由」が「内心の自由の保障」と言われるのは、「信教」の「信」がまさに内心の営みであるからであり、そこを保障すると憲法は述べているのであって、その「教(おしえ)」が邪悪であろうとも、時の政権を如何に批判していようとも、それが内心のことに止まるならば、「自由」は守られるのである。
 しかし、それが心の外に出たならば、その「自由」の保障は担保されないことを知らねばなるまい。確かにその「教(おしえ)」から出(いず)るところの現実世界での行為が法に触れなければ許されるだろう。しかし、だからといって、「宗教」の側がそれをいいことに現実の政策にまで容喙してくるならば、それをこそ奢りと言わねばなるまい。内心の世界での全能を、その「教(教え)」の枠組み内でのみの全能を、しかも現実にさらされれば幻想でしかない全能をもって、政治の世界での理念とし、何ごとかをなそうなどと考えたとしたら、そこに謙虚さは微塵もなく、奢りと言わずしてなんと言おう。そして、その奢りは社会に害悪をもたらすほかない。
 よって、憲法には「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」と記されているのである。


【附言】「教(おしえ)」が他者を包摂する大いなる受容を謳っていても、 「教(おしえ)」を授け、受けるという関係性、即ち「信」は心に一定の焦点を結ばせて縛る。それは制約そのものであり、逃れ得ない。況んや、「教(おしえ)」そのものが他を邪教とし排撃する文言を内包していたならば、その宗教が政治とは相容れないこと、言を俟たない。
 政治は、現実に対する有効な策を議論し、利害の調整をし続けるという限りない相対性にさらされる営みであり、その営みの方法論を追究してきた学問が政治学であり、それぞれの政治思想である。それは人文科学の範疇である。
 宗教が、人文科学であろうが科学と呼ばれるものに発言権を行使しようとするのは、己を貶める以外のなにものでもない。


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