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ガードレールを見るとよみがえる苦い記憶

小学生の頃、いつも登下校を一緒にする2人の友人がいた。

一人一人といるときは、そんなことにはならないのに2人が揃うと私はいじめの対象というほど大袈裟なものではないけれど、おふさげの延長にしては度を超えている対象にされていた。

具体的には帰り道、帽子を被っているとその帽子を取られ、もう片方と投げ合って返してくれなかったり、後ろからいきなり背中をドンと押され私が転びそうになると笑われたり、持っていたカバンを突然奪われ道路に投げられることもあった。

と、十数年前の記憶を改めて文字起こししてみると、これは明らかにいじめだったのかもしれない…。

ただ、私自身に自覚がなくて、他の2人もそんなつもりはなかった(であろう)ことから、これはいじめではなかったと思いたい。

そんなことが数年続き、その友人たちと別れた後に泣きながら帰ることも、たびたびあった。

その涙は言い返せないことへの悔しさでもあったし、2人でいるときには絶対にそんなことをしないのになぜ?という悲しさもあったと思う。

どちらにせよ、私はこの友人たち以外にも基本的に誰かに自分がされて嫌なことを面と向かって「嫌だ」と言ったり、目の前で泣き出したりすることが極端にできない子どもだった。

それでも悔しい気持ちややりきれない気持ちだけが積もっていく中で、ある日ガードレールの下に鉛筆が落ちているのを見つけた。

はじめは外に落ちている物だから、触る気にもなれなかったが、数日経っても落ちているその鉛筆にだんだんと愛着が湧いてきて、とうとう金曜日にその鉛筆を拾った。

そして、しゃがんだ際に目の前に見えたガードレールに私は人生で最初で最後の落書きをした。

何を書きたいかだけは具体的に思い浮かんできていたけれど、ただそれはしてはいけないことだということも同時に分かっていた。

でも、何かを残したい気持ちには勝つことはできなくて、おそるおそる鉛筆で2人の名前をわざと左手で汚く書いた。

そして、その友人の名前の横には、つい最近算数の時間に習った「折れ線グラフ」を描いた。

そのグラフを描きながら、今週2人にやられたことを思い返した。

昨日、最初に帽子を取ってきたのはこっちだから、この線を下に長く書こう、でも「やめて」と言ってもやめてくれなくて、笑ってきたから、今度はこっちの線をぐんと下にしよう。

あれ、高くなるところないや…

それを書きながらも気付いたら涙が溢れていたが、それはガードレールに落書きしていることへの罪悪感もあった。


そこから家までの道のり、誰かに書いていたことを見られてないか、あんなことなんでしてしまったのか…頭の中はぐるぐるしつつも、いつもより少しだけすっきりしている自分もいて戸惑った。


明くる月曜日の朝、その道を通っても鉛筆は落ちていなかったし、私が書いた落書きもすっかり消えてなくなっていた。

未だにそのガードレールを見ると、この苦い記憶がよみがえるし、いつの間にか消えていた落書きは誰かが消したのか気になってしまう。

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