ダーリンは妖怪手洗い
完全無欠なダーリンは神様のプレゼント!
私はあまりにもおっちょこちょいで衝動的。だから世間様へのご迷惑が多すぎる。
見かねた神様がある日、
「もう、こりごりじゃ。こいつには、賢くてしっかり者のお目付け役が必要じゃろう」
と、私のために特別に作ってくれた人、それが夫なのだと思う。
50年以上生きてきて、夫よりも問題解決能力のある人を知らない。人がうろたえるような緊急事態でも、冷静に、周囲の人の能力を見極めつつ、もっとも有効な解決策を周囲に指示し、自らも加わって実行することができる。反面ユーモアにあふれ、娘が学校をさぼってしまった時なども、面白いいいわけができれば許されるほどである。
夫は結婚して30年、結婚記念日・誕生日・クリスマスには、一度も欠かすことなく、何かしら趣向を凝らして私を喜ばせてくれる。私がフルタイムで働いていた時は正座して私の下着を畳んでいた。まあ、それは私への畏敬の念というよりは、家の構造からくるものであったが。
アラサーの娘とも妙に仲良し。そして二人とも大のSFファン。
しばしば2人で映画を見たりSFを語り合ったり、実に楽しそうである。
愛するダーリンの驚くべきその正体は?
その、人間として完璧に見える彼の本当の姿は、妖怪手洗いなのである。
最も多く出没する場所は、台所のシンク付近である。妖怪手洗いは、自らが「はばかり」で用を足した後や、少しでも手が汚れた後は、なるべく速やかに手を清めたい。広いシンクで、十分な水圧を得て、しっかりと泡立てたせっけんで、思う存分両手をこすり合わせ、その摩擦を持続させながら、完璧にゆすぐことが妖怪にとっては最重要事項なのである。
1回の手洗いの儀の所要時間は15分ほどである。この間、絶対に水道の水を止めたり、水圧を弱くしてはならない。また決して、妖怪のそばで、手洗いが早く終われと祈るなど、妖怪の注意をそらすようなことをしてもいけない。妖怪手洗いは、汚れ仕事をした後に速やかに思う存分、手洗いの儀がとりおこなえないと、命を失ってしまうのである。きっと…。
妖怪手洗いは水場を求めてさまよう
妖怪手洗いが一年中、手が荒れているのも宿命である。真っ赤になって乾燥しきった妖怪の手を見て、女房は気の毒に思うのだが、当の妖怪手洗いは時折、
「手がすべすべだ」
と言って険しい顔になっている。どうも妖怪は存分に洗って手がガサガサになっていた方が落ち着くようである。
妖怪が棲家を新築した時には、妖怪自ら設計にも加わっていたので、その水回りを妖怪好みにすることができたはずである。
しかし妖怪は、その時は自分の本能に対する認識が甘かった。なんと、あろうことか、はばかりの中の手洗い場を小さいものにしてしまったのだ。このため、用を足した後、妖怪は大きなシンクを求めてさまよい、台所にたどり着くことになった。
妖怪の出没に娘と女房は
「でたな~、妖怪手洗い」
と身構えるが、妖怪はひるまない。
手を洗わなければ生き延びられないのだから仕方ない。
女房も娘も妖怪優先を心がけているが、朝など調理が急がれる時は気が気ではなく、ついつい、いらだちをあらわにしてしまう。が、もちろんこれは言語道断だ。
また、台所のシンクはもちろん、野菜や調理器具などを清める場所である。
妖怪のはばかり後の手洗いで、手から流れ落ちた菌が食物につかないとも限らない。が、そんなことを言おうものなら、取り返しのつかない、大変なことになってしまうのである。
妖怪の機嫌(きげん)をそこねると、なんと恐怖の…
女房は一度、娘に愚痴を言ったことがある。
「妖怪がせっけんつけて手をこすってる間さあ、1回水止めてもいいんじゃないの? もったいないじゃん」
娘はきっとなって女房を見すえて言った。
「妖怪が不機嫌になって、その一日、我が家がずっと暗黒の世界になることを思えば、水道代などとは替えられない」
そうなのだ。
妖怪は棲家を一瞬にして暗黒世界と化してしまう力を持っている。
この暗黒世界は、妖怪が疲労の限界に至った時や、誰かに自尊心を傷つけられた時などに、もたらされる。
妖怪の眉間に刻まれた深いシワは、暗闇の深さを物語る。
娘と女房は、妖怪のささいな動作のひとつひとつを息をこらして見つめる。何も言葉を発することができず、おびえるばかりである。何か手段はないものかと、そっと妖怪に声をかけたり、妖怪の好物でを差し出したりしても、無駄な努力となってしまう。
普段は非常に優しくおだやかで、なにか面白いことを言える機会はないかと、うずうずしているような妖怪であるが、いったん暗黒大王に変身し、我が家が暗黒世界と化してしまうと、めったなことでは光がささないのである。暗黒世界の解決に、たったひとつの特効薬があるとすると、それは妖怪の昼寝である。
妖怪にとって命の次に大切なものは
そして、もうひとつ、妖怪にとって己の命の次に大切なもの、それは猫である。妖怪の棲家(すみか)にともに暮らす猫2匹は、スティーブ・ジョブズと並んで、妖怪の心のよりどころである。妖怪は猫がいないと片時も過ごすことができない。夕食のときは猫自らが妖怪のヒザに乗ってきて、夕食のあいだヒザの上で丸まっている。
妖怪はどんなに疲れていても、猫にだけは存分に愛を注ぐのだ。たとえば夫婦げんかの最中に女房と怒鳴りあっていても、猫が妖怪に近づいていくと
「なんだ、どしたの? クロエちゃん、かわいいねえ」
と、まさに猫なで声になり猫を抱き上げるのである。
妖怪は基本的に仕事の鬼であり、必要とあらば勤務時間など全く関係なく職場に行く。自分がやると決めたら、どんなに壮大な計画でも必ず成し遂げる。早朝でも深夜でも、己の決めた目標達成のために仕事をこなし、何か月も休みなく働くことさえ厭わない。しかし一方、他人からの指示には、どんなに簡単なことでも、どんなに上の立場の人間からでも、自分が必要と考えなければ決して従わない。
そんな妖怪に仕事を中断させることができるのは、猫のみである。猫が具合が悪いとなれば、どんなに仕事が多忙でも、すぐさま棲家に飛んで帰り、見事な早業で猫をかごに誘い込み、風のように病院に連れて行く。ふだん、立ち食いそば屋でさえ待ち時間が苦痛な妖怪だが、犬猫病院では、どんなに待ち時間があろうと一言も愚痴はもらさず、忍耐強く待つのである。
そして、猫に服薬の必要があれば、
「はい、クロエちゃん、嫌でちゅけどね、ちょっと頑張ってお薬飲みましょうね」
と、欠かさず丁寧に薬を飲ませる。決して無理強いすることなく、優しく猫がその気になるのを待ち、巧みな技で瞬時に薬を飲ませるのは神業である。
人間の都合で、猫に何か少しでも不自由を強いることがあったならば、それを強いた人間が妖怪に叱られる。
女房が以前、妖怪を含む家族全員が出勤してしまった後、猫のためにクーラーをつけっぱなしにするのはもったいないと、ぼそっと言ってしまった時には、
「何を言っておるのか?!」
と妖怪に怒鳴られた。その後、我が家が暗黒世界と化したのは言うまでもない。
神様ありがとう!我が家のお猫様奉行は永遠!
このように、妖怪手洗いは、我が家に君臨し続ける。妖怪手洗いは、めったにないようなすばらしい政治力を持ち、我が家を正しく導き続けてきた。
娘が学校をさぼって退学させられそうになった時、担任教師を説得したのは妖怪であったし、娘が大学の願書を郵送し忘れて締め切りを過ぎた時でも、あらゆる手を尽くして何とか願書を受け付けてもらえるようにしたのは妖怪であった。
お猫様への愛とは比べ物にならないだろうが、女房を愛し、大切にしてくれている。今後とも妖怪手洗いのお猫様奉行は滅びることなく、繁栄を極めるに違いない。
神様からプレゼントされた直後は、妖怪手洗いで暗黒大王であるとは気づきもしなかったが、今では、それも含めて神様に感謝している女房である。
愛しいダーリンに対して、女房から何かプレゼントをと思うが、感謝しすぎて、こんなものしか思い浮かばない。
完
実はこの文章、ある雑誌のエッセイ募集に投稿したものです。テーマは
「同居人の我慢ならない癖」。
もちろん結果はボツでした。
しかし、私は、このように妻が夫を多面的に見ることで、夫婦が長い間、楽しく暮らしていけるのではないかと考えている次第でございます。
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