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やっさん

 半世紀も昔の話である。やっさんは漁港に程近い、砂浜の掘っ立て小屋に、独りで暮らしていた。年齢は5、60代だったかと思われる。骨太の、いかつい体には筋肉が無駄なく付き、茶褐色に日焼けした顔面には、幾筋もの深いしわが刻まれていた。

 浜で地引き網を引く手伝いをして得たという魚を持って、やっさんはなんのきっかけでか、海からさほど離れていない我が家に出入りするようになった。

「おうっ、今朝はアジが、うんとかかったぞ」

 私の家族は12人もいたので、毎日のように届く山ほどの魚は、食卓を大いににぎわしてくれた。

「やっさん、傷の野菜で悪いけど持ってっておくれよ」

 畑で採れた野菜の規格外れ物は、魚が入っていたバケツに祖母の手で入れられた。

 日を経ずして、やっさんは我が家で昼を食べ、夕飯も食べていくようになった。こわもてで、平時でも怒ったような形相のやっさんに、私は距離を置いていた。


 ある日の夕餉どき、やっさんは箸を口元に運びながら、にやりとした顔で私に言った。「和子、娘になったか?」

 間を置かず、ケタケタと声まで立てて独り笑いした。性についてしゃべっていけないというのは、家族間の暗黙の約束ごとだった。皆がそろった食卓で、やっさんはぬけぬけと言い放ったのだ。当時、高校に入学したばかりの私は頭に血が上った。そそくさと食事を済ませ、自室にこもった。やっさんとは絶対に口を利くまいと心に決めた。


 それから幾月かが過ぎるうち、やっさんはまるで家族の一員のように、我が家にいる時間が長くなった。


「和子、おもしれえぞ」

 家の裏にある井戸の近くを通りかかると、呼び止められた。なんだろうかと、足を止めてみた。やっさんは、伏せた竹籠の中から鶏を一羽つかみ出すと、まな板にねじ伏せ、なたでストンと首を落とした。手を離すと、頭のない鶏がよたよたと走っていった。私は家の中へ飛び込み、顔を覆って声を上げ、泣いた。

 曽祖母が私の傍らに来てささやいた。

「卵、産まなくなっちまったひね鳥だ。欲しいって言うからよ、落としてもらったんだよ」

 夕刻、ひもで足をひとまとめにくくられた三羽の鶏をぶら下げ、浜へ帰っていくやっさんの後ろ姿を目にした。


 その後、高校を卒業した私は東京へ働きに出た。久しぶりに実家に帰ると、祖母から、やっさんの消息を聞かされた。

「やっさんが入院してよぉ。もう危ねえらしいんだと……。ユキに会いてえって言ってるんだってよ」

 ユキは私のいちばん下の妹で5歳になっていた。

「やっさんは、〝ユキやー、ユキやー〟って言ってな、ユキをいつも、うんとよくかわいがってただよ」

 悲しみを含んだ笑顔を向けて、祖母が私につぶやいた。
 大柄で頑強なあのやっさんが、病院のベッドにふしている姿を私は容易に想像できなかった。そして、今までに感じたことのない心寂しい切なさが、胸の内に押し寄せてくるのを覚えた。

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