家主の幸せな一日
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スーパーの出入り口で家主に会った。家主は八十歳を越えた女性で、息子夫婦と孫とで、このすぐ先にあるビルの最上階に暮らしている。
私とチャーリーは家主の住む下の階の四階を借りているので、家主のおばあさんに軽くあいさつをした。
おばあさんは自分の自転車に、米袋を積んでいるところだった。
「あら、おひさしぶりねえ」
目を細めて、私たちにあいさつを返してきた。
体をいきませ、10キロサイズの米袋を持ち上げている。自転車の前輪のほうのかごに一袋積み、後輪の上のほうにも積もうとしていた。前後の荷台に合わせて二つが限度と思えるのだが、それなのに、おばあさんは三つも四つも重ねて積もうとがんばっている。
三つめを積み上げると突然、自転車はバランスを失った。馬が後ろ脚で立ち上がるように、イヤイヤをしたのだ。せっかく積み上げた米袋は荷台から、みんな落下した。
私は慌てて駆け寄り、おばあさんにすぐさま手を貸した。落ちた米袋を抱きかかえ、自転車の荷台にいっしょに戻そうとした。
チャーリーが横から私に、そっと耳打ちする。
「そんなこと、することないよ。来月には俺ら、引っ越しちゃうんだからさ」
チャーリーのチャーリーらしさは、こういうところに出る。
おばあさんは大きくひと息、息をついでから言った。
「まあまあ、すみませんねえ。……よろしかったら、うちに寄っていらっしゃってよ。部屋には孫がいるし、ミカちゃんもいると思うわ。冷たいものでも召し上がっていらして。そうそう、おもしろいものを、わたくしお見せするわよ」
おもしろいものと言われて、私の好奇心が即座に反応した。
おばあさんは続けた。
「私、地下に自転車を置いたらお部屋に行くわ。お米はいいのよ。息子があとで運んでくれるから。たまには寄ってらして」
家主の誘いに応じ、チャーリーは頭をかきながら、ぺこりと首を落とすしぐさを繰り返した。米袋は三人で自転車にくくりつけた。
レンガ色したビルの正面中央から通路を奥に進んで、エレベーターに向かった。家主が名指した、ミカちゃんとおぼしき若い女性が部屋から出てきた。促されるまま、私たちは部屋に上がらせてもらった。この訪問は二度目だった。
通された居間の、見覚えあるカーペットに、二人で足をくずして座る。ミカちゃんが食卓テーブルの周りを行ったり来たりして、なにやら忙しそうにしている。二人の幼い男の子が、木の長いソファの上で、体が半分、もつれ重なるように昼寝をしていた。
私の脇には、乾いた洗濯物がどっさりと山になっている。見るともなく洗濯物の山を眺めていた。タオル、パジャマ、Tシャツ、子どもの衣類……。
二十畳以上もありそうなこのリビングの端のほうにある、もう一つの別のドアから、家主のおばあさんが入ってきた。
チャーリーが、出されたばかりの麦茶を急いで飲み込んだ音がした。
おばあさんはにこにこ顔で、私たちの近くに来た。
「お待たせしたわね」
「いえいえ、どうもおじゃましてます」
チャーリーが体を揺すりながら言う。
おばあさんはちゃぶ台を出し、その上におもちゃのようなものを次々に載せて、なにか手作業を始めた。楽し気な顔つきで私たちに二言三言つぶやき、手招きをしたので、二人でもっと近くににじり寄ってみた。
おばあさんの真向かいに座って、手もとを見つめる。ちゃぶ台の上には、土色した、まるで粘土細工のようにも見える動物のミニチュアが、メリーゴーラウンドふうの輪になって、足長のまん丸い台の上に固定されたところだった。
時計の文字盤の、ちょうど文字の位置にロバ、猿、リス、ネズミ、馬、ウサギ、鹿、キツツキ、ゾウムシ、ヤギ、ラクダ……。
置き物のように動物たちおもちゃがずらりと並んだ台の下方から、おばあさんは顔を突っ込むようにしてのぞき込み、ろうそくに似た短いものに、ライターで火をつけた。すると、ちゃぶ台の上の小さい十二の動物が並んだメリーゴーラウンドが、ゆっくりと回転を始めた。
動物たちの口から灰紫の、息のような細い煙が出ると、おばあさんが下の火を消して、動物たちへ自分の息を吹きかけた。唇を当てる方角を微妙にずらすと、動物たちは回転しながら吐き出す息を左へ右へとたなびかせて、息の方角を変えた。
動物たちから出た細い息のかかる所には、金属の薄い板でかたどった、さまざまな模様の、たとえば雪の結晶型だとか、エンジェルがラッパを吹きながら舞っている型だとか、バトンの形をしたチャイムの棒だとかが、電気スタンドぐらいの大きさの、やはりこちらもメリーゴーラウンドのような形でぴかぴかと金色の光を反射させて、チリンチリンと鳴り始めている。
それはやわらかい起伏のメロディーだ。オルゴールの音をもっと繊細にしたような音色で、静かなゆったりした曲を奏でている。
天使の翼が雪片に当たり、その雪片が細い金属棒に触れ、金属棒は天使のラッパに当たる。それらの音のつながりは涼やかな風の流れのように聞こえた。それぞれの金属片を揺するのは、粘度色した動物たちの小さなうす紫の息で、その息を上げさせるのが、おばあさんの縦じわの寄った唇が吹き出す、年季の入った呼気なのだった。
一曲が終わりまで来るとおばあさんは、しばし息を止めた。曲は静かに終えていった。
ちゃぶ台の下に、新たな火をろうそくに灯した。するとまた、一呼吸置いてちゃぶ台の上の動物たちがもぞもぞと動きだし、今度は時計と反対回りにまわり始めた。
おばあさんが息を吹きかけて、ろうそくの火を消そうとした。すると動物たちは抵抗するかのごとく激しく回り、身ぶりをつけて踊りだす。と、金色に光る薄い金属の小物たちが、時計回りに回転を始め、チロチロ、チリンチロチロと音を鳴らす。
今度は少し早い曲。動物たちは忙しそうに回っている。吐き出す息も、ポッポッと塊になって出てくる。おばあさんは前後左右へ頭を振りながら、息を吹きかけている。
居間の壁ぎわで、木製の長いソファに寝ころんだ二人の幼児が、足を持ち上げて、かかとを壁にぶつけて軽くリズムを取っていた。二人はうれしそうに口を開いて、いまにも歌い出しそうな様子で……。
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