「芸術わからない」について考える

私は某読書会に参加するたび、「現代アートってわからない」「芸術の本って難しくてわからない。だから面白くなかった」って声を聞く。その度になんとも言えない気持ちになるし、それは文脈を把握してないからだよわかればいいじゃん、て思ってしまう自分がいることを悲しく思ってしまう。

これは自分の中に「わからなくていいよ」派と「わからないからって思考放棄しなくても」派が居るからだと思った。両方持っているからこその感情だと思ったから、その両方を自分のために言語化しようと思う。

わからなくてもいいよ派

(1)ブーメラン回避
芸術の部分を数学、化学、宇宙とかに置き換えられたら私も同じこと言い出すと思う。たまたま自分のdig魔っぷりが芸術分野で発揮されているから「芸術は文脈知れば楽しいのに」などど言っているものの、別分野の人に似たようなこと言われたら「ちょっと何言ってるかわかんないです」ってなると思う。      

(2)リソース割くのしんどいよ
そもそも私が最低限の美術史を理解しているのって、卒業研究で人生狂わすくらいに戦ったことと時間とお金の多くを芸術にベットしていることの対価でしかない。リソース分配の強要なんて思想の強要と同じくらいやってはいけないことだと思っている。そこまで芸術どっぷりしても理解できることよりわからないことの方がもっと多いんだから、尚更人には言えないですよ。

(3)エモだけで芸術楽しむのって逆に難しい
理論というか、型というか、一定の規則を知った状態での芸術鑑賞って、よっぽど胸打たれる作品じゃない限り枠組みにはめて鑑賞しちゃうから楽しめるものの総数を自ら狭めてる気がする。
だから感覚でエモい!好き!って言えるのって子どもの描く絵は逆にすごいみたいに貴重な感覚だと思う。

思考放棄せんといてよ派

(1)作中に無駄なものはない
美術史の恩師から「線1本たりとも無意味なものはない」という教育を受けている側なので、すべてのわからないものには理由があると思っている。ビジネスマンには美術教養が〜みたいな謎ブームコンテンツの真髄ってこのあたりなのでは? 私の言いたいこと、村上隆の『芸術起業論』に書いてあるからアーティストじゃなくてもとりあえず読んで欲しい

(2)論理と感性分けずに起こる悲劇は回避したい  2019年のあいちトリエンナーレで起きたみたいな表現の自由問題、論理と感性分けてないと社会的にまずいなって思った。芸術分野に関わらず「わからないけど感覚的に無理→きちんと理解してないけどdis→disられた側が自粛」とかいうルートを公でやらかしたり世論もそれに賛同するのはまじでどうにかしたい。
感覚的に不快なものを深掘りしたくないとは思うけど、その感覚を引き起こすものや感情の発現ルートを論理的に咀嚼せず感情論だけで動くのって怖いことだぞ。それやるってことは、他人が自分を「生理的に無理」で排除してくることを容認してるようなもんじゃないですか。

まとめ

まだ自分の中できちんと咀嚼しきれてないところあるから、上記に矛盾発生してる可能性は理解してます。また、あくまで「個人の意見」だから、全員が賛同できる内容でないことも重々承知のうえ。
でも、私はその多様性を理解したうえで芸術で思考放棄しないことを選択した。その個人的価値観は今のところ変わらないと思う。

このあたり、もうちょっと思考をブラッシュアップさせたいし、した度にこのnoteを加筆修正できればと思う。


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