【高円寺日記】 2024年2月6日

 美学校の人たちがブルームーンに来た。僕は会話の中には参加できなかったけど、同世代の作り手たちがここにいるんだという確かさを感じられた。
刺青彫り師、あとは何を作っている人だろう。身近な環境で作り手として「器」を作ってきた父を見てきたこともあって、アーティストが同じ空間にいることが、絶大な安心感がある。理論と実践を両立していきたいと常日頃考えながらも、実際には「考え」の中からはみ出してはいない。
僕自身の「探究」活動がまだ行動に移せていないという焦燥感がある。ブルームーンに一人で立ちながら、ああでもない、こうでもないと考えては、自閉してしまっているように思える(これはやりたかったこと、やりたいことの本来の姿ではない)。
 最近、お腹は空くし、本は読めていないしで、かといってブルームーンのことが進めているかというとそうでもない。
日記もろくに書けていないような気がする。鬱ではないのに、鬱の時の症状を生きてしまっているように思う。
かと言って落ち込んでいるわけでも、絶望しているわけでもない。今日、高円寺在住の美容師さんとお話ができたみたいに、ここでの出会いと先の不確かさが、僕自身の原動力となっている。ここでの日常は楽しい。でも、毎日のルーティンは忘れてはいけないし、これから磨かないといけないのだと思う。特にお腹が空いてしまうことや本が読めていないことは僕にとって良くないことだ。パートナーとの日常だって、大切だし、この前読ませてもらった日記にもクリスマスの時の幸せな時間を丁寧に綴ってくれていた。Mが素直な気持ちで「ああ楽しかった」と綴ってくれていたことを僕は忘れることなんてできない。

 毎日いろんなことがある。生きている。出会っている。そんな当たり前の価値を、原的な価値を僕は掘り起こしたいのだった。
あんまり主義や思想の話はしたくないけれど、自明と思われている価値(例えば資本主義やデータの客観性、パターン)を突き崩し、原的なものに宿る価値を掘り起こしていくことが僕の仕事だと思う。それは例えば、お金をたくさん持っていることや反対に自給自足の暮らしをしていることといった表面上のことではなくて、どこに生きていても、生きる人間が持つかけがえのなさみたいなものだ。

ある自明視されている価値によって、一人ひとりが生きている事実の重みが失われてしまうことの、残酷さ。
コミュニケーションにおいて、他者の言葉を解釈するときの、傲慢さ。

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