未熟な役作りの話。

誰にでもなれる。誰でもなる。

役者は台本を渡されて、まず覚えることは当たり前なのでそれを除いて、最初に何をするかと言うと、役作りをしていく。
自分はまだまだキャラクターを作り込めなかったり、キャラクターの中に自分が混ざってしまったり下手くそなのだが、自分が自分じゃなくなっていくのはとても楽しい

今は役になって喋れない。

スケジューリングが悪いとか、人生の経験値が無いこととか、様々な要因があって役作りがまだまだ下手なのだが、これまでの役の台詞は言おうと思っても意外と言えないものだ。正しくは、役として喋れないのだ。
完全にキャラクターを作りきれなかったから一つの引き出しじゃなく、分散して引き出しに入ってしまったんだろうと考えている。
だから、あのキャラやってと言われて自分は出来ない。今この瞬間にそんなこと出来るように成れば良いのにと思う。ただそれが出来る成長に見合うだけの努力をしてきたかと聞かれると誤魔化すしか無い。つまり、プロに足る努力なんてしてないのだ。

嫌わないこと。苦手だから向き合う。

自分は嫌なことをやるんだ。それを誰に自慢することもなく、平然とこなしていく。
それは正攻法で上を取りに行くのが自分の美学だからだ。そして上で輝いている誰もが陰で努力をしていると思うから、何倍もやらないといけない。
足りないと分かって頑張りきれない弱さはある。でもやらないとプロの足元にも及ばないことは自覚があるから、やらなかった今を後悔しないと決めている。
好きなように今を選択している。でも、時に嫌なことを選択することが良い1秒後や1時間後、明日や10年後を迎えるために必要であればやるべきだと思う。

自分は変人とは言われてもきっと誤差の範囲で、しっかり普通の人間なのだ。当然のように逃げたいことも、苦手なジャンルも存在する。トラウマだって恐怖症だってあるのでちゃんと普通に怖いと思う。
でも役者として向かい合う日が来ると思う。自分が感じることは引き出しの一つで、役がその引き出しを持っていなければ、開けたくても開けることは許されない。

客観性の侵食。多様性に浸っていく。

自分の芝居や役作りの良し悪しを決めるのは観客の方々で、自分の客観性ではないと多くの方に教えてもらった。実際に自分もそうだと思う。自分が何をしているか自分で分かるうちは思考がキャラクターのように自分を動かしているだけで、自分はキャラクターじゃない。
普段生きている時に過去をふと思い出したり、本の引用が浮かんだり、きっとそのキャラクターもそういうのがあるのだろう。自分は役作りで人生の全てを考えようとしてこなかったが、これからは年表を作っていこうと思う。
そして、どんな考え方でも許容しないといけない。正直ニュースを見て、そんなことする人間は消えてしまえとか残酷なことを考える。自分はそういう人のことを理解して演じられるような人間になりたい。
そのために、まずは全てを受け入れる広い心を持って、世界を見ていきたい。それは自分が何者にもなるために必要なことだ。
もう目を背けようとは思わない


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?