見出し画像

「生きる」ということは?(これ、いま流行りの、マルトリートメントじゃないっすか⁉⑯)

「生きる」ということは? の巻

 

どうも、こんにちは。ゴンベーでございます。

 

本日は、いきなりディープな問いから始めたいと思います。

 

アナタにとって、「生きる」ということは、どういうことでございましょう。

 

よくある、「人生の意味・目的」「目標・夢」とか、そういうのではありません。

 

ご自身が、生きるということを、「どう定義なさっているか」でございます。

 

自分が生きるとは、日々、何をすることか?

どういう存在であることか?

そう言いかえても、いいかと思います。

 

ちなみに、ゴンベーはですね。

「目の前の怪物たちが、心身に加えてくる危害に、対処すること」。

幼いころに、このように設定されたようでございます。

 

ゴンベーにとって、「生きること」とは、

「理不尽に暴力や暴言をあびせられること」。

「それら加害行為から、心身を防御すること」。

物心ついたころには、こう定義づけられていた模様です。

 

常に怪物たちの顔色をうかがい、先回りして言動を予測し、

何をどうすれば被害を最小限に抑えられるかを推測し、

それ以外の言動を一切行わず、ひたすら受けにまわること。

 

自分の身など一切かえりみず、常に相手の欲求を満たし、

自分の言動で少しでも相手に不穏な気配が生まれたならば

即座にフォローを入れてこれを修正することに努め、

相手の都合の外にある言動は絶対に取らないこと。

 

ゴンベーにとって、「生きる」とは、

これを日々やり続けることに他なりませんでした。

 

そんなことを、いくら一生懸命やっても、虐待家庭というものは、

子どもには何の非もなく、加害者たちの気分次第で蹂躙されるので、

努力に結果が伴うことはなく、ただただ自己否定感と無力感だけが

蓄積されていくのですが。

 

おそらく、虐待家庭・マルトリ家庭に育ち、

第三者からの助けや救いも得られることなく

大人になってしまった人たちには、

多かれ少なかれ、こういう定義があろうかと思います。

 

「生きる」というのは、夢だとか自己実現がどうとか、

そういう能動的・積極的なものではなく、

「ただ周囲の機嫌を敏感に察知し反応する」

「相手の機嫌が悪い時の受け皿になる」

「ただゴミ箱としてそこにある」

そういう、受動的なものなんじゃないかと思います。

 

これに気づいたとき、ゴンベーは、

「ああ、そうか」って思いました。

 

いわゆる「人生」というものは、

自分にとって、それだけのものだった。

ごくごく幼いころに、そのように定義づけられていたのだ、と。


このような定義があると、何が問題なのでしょう。


それは、「ヘタすると一生それが続く」ってことです。


一生です。


例え、「親兄妹」と一切顔をあわせなくなっても、です。


どういうことか、わかりますでしょうか。


定義づけがそうなっている以上、例え目の前に「怪物」がいなくとも、

ゴンベーは「怪物から心身を防御する」人生を歩み続けるのです。


新しく知りあった人を怪物に見立て、「親兄妹」との間にあった関係性を

再現してしまう。


実際に、相手から暴力や暴言を受けなくても、常に、

「こんなこと言ったら相手が不機嫌になるかもしれない」

「しまった、相手は今の発言を気に入らなかったようだ。

 フォローしないと心身に攻撃を加えられる」

こういったことを考えて、おびえながら、最大限にアンテナを

とがらせながら、生きていくことになるんです。


実際、ゴンベーのこれまでをふり返ってみると、

 見事にこんな感じでした。

無意識のうちに、「家庭」で植え付けられた定義づけに従っているんです。


ただね。

ただ。

 

ここで絶望して終わる必要は、ないと思うんです。

 

そうと分かったなら、それに気づけたなら、

きっと、そこに希望を生むことも、できるんじゃないかと。

そう思うわけです。

 

「生きる」の定義を、変えることも、できるんじゃないかと。

 

何も、幼少期に知らず知らず設定させられた定義づけを、

そのまま一生使ってなくても、いいじゃないですか。

 

理不尽な環境下では、そういう設定をせざるを得なかったってだけです。

なにも、一生使ってなくても、いいじゃないっすか。

はい、大事なことなので、2回いいました (^_-)-☆

 

では、どうやって変えたものでしょうね。

 

よく、願望実現するのに、アファメーションを唱えるとかありますけど、

あれも使えるかもしれません。

 

「わたしは魅力的」とか「お金持ちになりました」とかじゃなくて、

もっと、根本的な何か。もっと、根源へのアプローチ。

「今、自分が生きているのは、存在を許されているからである」とか?

 

も少し前向きな言葉を入れるなら、たとえば、

「わたしにとって、『生きる』とは、世界を慈しむことである」とか、

しっくりくるアファメーションが何も思い浮かばない場合は、とりあえず

シンプルに「わたしは、『生きる』の定義を変えます」て宣言だけでも

してみるとか、そんな感じかなぁ?

 

これが定着してくれば、ふとした時に、

「あ、自分はまた、『生きる』の定義を、昔の定義に戻しちゃってたな」

「定義を変えるなら、昔の自分とは違う定義を持っている人なら、

 今この場面で、どんな言動をとるのかな」

こんな風に、考えられるようになるんじゃないかなぁ(^-^)

 

ゴンベー自身、まだ手探りなもんで、「こうすればいい」みたいな

メソッドは、発見できておりませんのです。

 

ただ、「気づけた」ということだけでも、大きな変化だと思います。

知らずにその設定を採用しているのと、「それに気づけた」ことは、

大きく違う。

 

知らずに長い期間、ひょっとしたら何十年も使いつづけてきた設定は、

気づかずに色んなところで、顔を出してくるはず。

 

ただ、これからは、「あ、今のは……」って、気づくことができます。

今までみたいに、設定しっぱなし、定義に乗っかったまま、ではありません。

 

なので、これを読んでくださっている、そこのアナタ。

もしアナタの定義が、あまりアナタご自身のために、

好ましくないものであるならば。

 

まずは、それに気づいてみましょう。

 

だいじょうぶ。変わります。

と、ゴンベーも、自分に言いきかせてます(*^-^*)

 

今回もお付き合いいただき、ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?