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傘がない

つい先日のことである。

定時を過ぎたのでデスク周りを片付け、PCを閉じ、「お先に失礼します」と挨拶をして職場を出ようとした私がドア横の傘立てに目をやると、そこに置いていたはずの私の傘が無くなっていた。

確かに長期間置き傘をしていた私も悪いが、職場で他人の傘を盗むなど言語道断である。盗人よ、君はいつからそんな大人になってしまったのだ。社会人一年目の頃を思い出してほしい。君が学校を卒業してこの仕事を選んだ時、どんな気持ちだっただろうか?人の役に立ち、社会に貢献できる人間になりたいと少しも思わなかっただろうか?私の傘を盗む時、おそらく君はなんとも思わなかっただろう。そうだ、今の君はきっと息を吐くように人に迷惑をかけながら暮らし、そのことに対して罪悪感すら抱いていない。確かに社会に出て揉まれていくうちに徐々に擦り減り、色褪せ、輝きを失ってくすんでいく人がほとんどである。現状に満足できない気持ちもよく分かる。私だってそうだ。しかし、人の物を盗むというのは超えてはいけない一線を超えてしまっている。私はそんな君が心配ですらある。

傘は無くなっていたが、その日は雨も降っていなかったので帰路で困ることはなかった。もやもやとした気持ちを自宅に持ち帰りたくなかった私はそのまま外で夕食を済ませ、ジャズの生演奏が聴けるバーでカクテルやウィスキーを数杯飲んで帰宅した。結果的にいつもより贅沢をした夜だったが、多少の出費は山ほど残業をしている私にとって全く問題なかった。

いい感じの酔いのまま帰宅し、靴を脱ぐ。一日中外で革靴を履いている人間にとって、靴を脱ぐという行為はオンとオフを切り替えるスイッチのようなものだ。時刻は23時40分、スイッチがオフに切り替わった私の目に飛び込んできたのは玄関の傘立てにささっている一本の傘だった。

おかしい、職場に置いていたはずの傘が、なぜここに?私はここ数日の記憶を辿ってみたが、傘を自宅に持ち帰ったという記憶がない。しかし、傘が自宅にあるということは、盗まれたわけではなかったということだ。しかしそうなると盗人に語りかけていた先程の私は一体何だったのだ、私は延々と無に対して問いかけていたのか?「無に対して問いかける」というとバリヤバな修行を耐え抜いた高尚な僧侶が言いそうなことにも思える。

謎は深まるばかりに思えたが、子供の頃、同級生の間ではぷよぷよが強い方だった私はその頭脳を駆使してあらゆる可能性を考察した。化学、物理学、天文学、経営学、易学、本当は怖い家庭の医学、骨法、グランマの知恵袋、様々な学問の視点から考察し、その結果一つの仮説に辿り着いた。

私の辿り着いた仮説、それは誰かが私の記憶を盗んでいったという説だ。当初は傘がない=傘が盗まれた、と思っていたが、実際に盗まれていたのは私が傘を職場から自宅に持ち帰った時の記憶だったというわけだ。

誰が?何のために?どうやって?

ひとつずつ紐解いていこう。まず、私が傘を持ち帰ったという記憶を盗んだとて、そんなものは誰にとっても何らメリットはない。おそらくこういうことだ、私が職場の傘立てから傘を取り自宅に帰るまでの間、犯人にとって見られては不都合な場面を偶然にも私が目撃してしまった。そのことに気づいた犯人はその瞬間と前後1時間程度の私の記憶をごっそり盗んだのだ。不都合な場面というのは、おそらく犯罪の瞬間だろう。麻薬の取引、人身売買、殺人…どうやら傘泥棒よりもスケールの大きな犯罪の臭いが立ち込めてきた。犯罪臭が、山道とかハイキングコースの途中にある年季の入ったトイレぐらい臭っている。

「誰が何のために」はこれで説明がつくが、問題は「どうやって?」だ。しかしこれについては考えるまでもない。あなたは「他人の記憶を盗むことはできない」ということを科学的に証明できますか?できませんよね?はい論破。方法は分からなくてもできるものはできるのである。おそらく犯人は記憶を操作するタイプの能力者なのだろう。あなたは気づいていないかもしれないが、人は誰もが能力者なのだ。ちなみに私は「目覚ましが鳴る少し前に起きることができる」という能力を持っており、月に何度かその能力が発動する。私の能力は何の役にもたたないが、もし他人の記憶…目撃者や捜査員の記憶を奪う能力があれば、完全犯罪は容易に成立する。それだけではない、奪う相手によっては国家機密の情報すらも持ち出せるのだ。

そのような能力を持った人間が、犯罪組織と手を組んでいるとしたら?想像するだけでも恐ろしい、日本は諸外国に比べて犯罪が少ないと言われているが、これも国民性だとか教育とか文化的なものではなく、ただ我々が犯罪が起きていることに気づいていないだけなのだとしたら?それ以上は「知らぬが仏」かもしれない。

このことを誰かに話したとて、私が残業のしすぎで疲れてるだけだと言われるだろう。誰にも理解されないかもしれないが、このようなことがあったということをここに書き残しておく。記憶はいつか消えるかもしれないから。

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