海辺の生と死 ――『崖の上のポニョ』

※『ビランジ』22号(2008年9月発行)に寄稿した文章の再録です。文中の事項は当時のものです。

 この夏、『ハウルの動く城』以来4年ぶりとなる宮崎駿監督の新作長編『崖の上のポニョ』が公開された。
 宮崎監督の長編は『もののけ姫』以来『千と千尋の神隠し』『ハウルの動く城』と、絵も動きも年々リアル志向を増し、緻密な描き込みと情報量を持った画面は限界とも言えるほど精密さを強めていた。その画面密度に驚嘆しつつも、かつての『未来少年コナン』等の大らかな漫画映画的世界を懐かしむ思いも私の内には根強くあった。
 ところが『ポニョ』で、宮崎監督は従来のCG表現を排し、徹底して手描きのアニメーション作りにこだわった。それまでの実写と見紛うばかりの精密な背景から、絵本風の筆やクレヨンのタッチを残した背景に変え、画面で動くものは基本的にアニメーターの手で描かれることになった。
 そのルーツは、精密なジブリアニメ大作の一方で着実に作り続けられていたジブリ美術館の館内映画館用の短編群にあった。宮崎監督が敬愛する中川李枝子さんらによる童話を原作とする『くじらとり』や、『となりのトトロ』の後日談にあたる少し怖くて不思議な『メイとこねこバス』、画面の全部がセル画タッチの『やどさがし』、水中の小さな世界の描写が圧倒的な『水グモもんもん』等々。単純な線で描かれたシンプルなキャラクターが生き生きと動き回るそれらの短編は、ジブリの大作には決して無い漫画映画ならではの伸びやかさで私をとりこにしていた。『ポニョ』は、それら短編で試みて来たことの集大成とも言える。
 画面で動くものは徹底してアニメーターの手で描くという方針で作られた『ポニョ』の画面密度は相変わらずすごいものがある。しかし、そのすごさには暖かみがある。人の手の温もりがある。冒頭、画面を埋め尽くす海洋生物の群。カメラが動いてしまうのが惜しい程、それらは命を孕んでうごめいている。そのアニメーションならではの醍醐味。小さなさかなの子ポニョの、ふくふくと触り心地の良さそうな丸いおなか。柔らかな描線と色の塗り分けで表現されたバケツの水。一昔前のような丸っこいフォルムの自動車が波を切って生き物のように疾走する小気味よさ。車や機械をCGで描くのが当たり前になってしまった現在のアニメ界は便利さや正確さと引き換えに何と多くのものを失ったことだろう。
 名前を与えるという、宮崎作品で常に大きな意味を持つ出来事から始まった物語は細かい説明抜きでぐいぐいと進む。例えば、元は人間だったというフジモトがどういう経緯で海の住人となりポニョの父となったか、今何をしようとしているのか、そうしたことは一切説明されない。分からなくても感じてくれればそれでいい。物語を仔細に組み立てることよりもただ語ることにこそ意味を見出したかのような宮崎監督の姿勢が見える。それは囲炉裏の側に子供らを集めた語り部のようにも見える。私たちも立ち止まって考えるのでなく、今、画面で起こることをただひたすらに味わう。
 意思を持って生きているような海の波に驚き、根源的なボーイ・ミーツ・ガールの物語に胸を熱くし、魔法のように現れる茹で卵とハムの乗ったインスタントラーメンに食欲を刺激され、素晴らしく美しい色彩設定を元に塗り分けられた海中のグランマンマーレの姿に見とれ、『パンダコパンダ 雨ふりサーカス』のように水没した町を行く宗介とポニョのポンポン船をうっとりと見つめる。

 これは、かくあらまほしという願いの映画であり、かくあれかしという祈りの映画だ。
 子供らは健やかに、女たちは凛々しく、老いてなお自分の足で駆け回り、世界はどこまでも美しく子供らを包み祝福し、宝の海には大漁旗が翻り、喪われた太古の生物さえ共にある。そんな世界。海を、自然を汚す人間たちへの怒りも、温暖化による海面上昇の危惧も内に秘めながら、声高な告発でなくさらりと事象を描くに留めている。
 だからあるがままの映像に身を委ねていることこそが心地いい。こんな映画体験、滅多に出来ることではない。
 齢67にしてのこの豊穣。それは類稀なるイマジネーションと、それを具現化する為の技術の蓄積にこそ裏付けられている。
 そしてその豊穣の裏には密かな死の気配が見え隠れする。水底に沈んだケアハウスは既にあの世のものとも見え、絶滅した古代魚が泳ぎ回る水没した町には愚かな人間の文明など滅んでしまってもいいという怒りと諦念が見える。その中で宗介を励まし、しっかりと抱き止めてくれるのは、監督の亡き母の面影を宿す老女。この一瞬、監督は5歳の少年の姿を借りて亡き母と対峙したのではなかろうか。既にしてこの世ならぬ場所で。
 それでも水に浮かぶ船上には若き母に抱かれた、この世に生まれ出たことを祝福されるべき赤ん坊がいる。希望の象徴としての赤ん坊と関わることでヒトとして生きて行ける力を得るポニョがいる。クラシカルな洋装の母親は幻の存在のように見えはするものの。水面を隔てて静かに共にある生と死の風景。
 海が死の世界を感じさせるのは『千と千尋の神隠し』で、千尋とカオナシが列車で渡った静謐な海もまたそうだ。あれは黄泉の国へ続く列車だったのではなかろうか。だから、透き通った素敵な洪水の町を宗介たちが船で行くシーンは『パンダコパンダ 雨ふりサーカス』と似ているけれど焼き直しなどではなく、別の意味を持つものとして両立が可能だ。

 そして、宮崎監督の老境もまた感じる。決して衰えたという負の意味ではなく。かつて黒澤明監督が撮った『影武者』が、孫可愛さの滲み出る映画になっていたのを目の当たりにした時のように。黒澤監督は『影武者』で、もうかつてのようなパワフルな時代活劇を撮れないことが露になってしまったその後に『夢』や『まあだだよ』を撮った。私はこの2作がとても好きだ。『ポニョ』にもそれに通じるものを感じる。ヒロインを己が恋する対象としてでなく、その幼い情熱を見守り応援する立場で描いた『ポニョ』。思い出や願いや悔いや怒りがない交ぜになった『ポニョ』は宮崎流の『夢』でもあろうか。そして車椅子を捨てて走り出す老女たちは宮崎流の「まあだだよ」の合図だろうか。
 「ものがほかのものに変わっていくのを描くことこそが、実はアニメーションなんじゃないかと思う。手で描くことが、アニメーションってもともとこういうものだったんだよなって、思い出させてくれる。」『婦人公論』8月7日号のこの発言は、老境に至った監督がなお作家としてひと廻り回って新たなスタートラインに立ったことを感じさせてくれるのだ。
 ラストカットにもうひと押し欲しいと贅沢なことを思いつつ、久々に漫画映画の豊穣さを心から楽しんだ、素敵な101分だった。

※初出:『ビランジ』22号(2008年9月発行、発行者:竹内オサム)
※『崖の上のポニョ』2008年7月公開、原作・脚本・監督=宮崎駿

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