テロリズム的、沈黙交易的

沈黙交易的なものについて最近考えることが多いので、最近その関連の本を注文していて今日届いた。毎度のように、いつの間にかポストに入っていた形でその本を受け取ることが出来たのだが、これもまさに沈黙交易に他ならないわけだ。

その本はまだ数ページしか目を通していないのだが、その本に関係なく書けることがあるなと思ったので書いておく。とまあそんな意気込みをしたが、全然日記の域を出るものにはならないだろう。

というのは、今日bondeeというアプリを友人に勧められたのでインストールしてみた。これはアバターを使ったSNSみたいな感じで、アバターのエモートでやり取りもできるし、チャットもできるし、みたいな、だけどなんだかそれらのコミュニケーションの方法同士がなんだか噛み合っていなくて、もう少しコンセプトを絞れよ、というようなまさに発展途上感満載のアプリなのだが、そのアプリでその友人とやり取りをした。

やり取りと言っても、少ないモーションでアバターを動かしてコミュニケーションともならないものを交わしながら、たまに自分の顔面の自撮りを送り合うようなヘンテコなものだったのだが、なんとも新鮮な感じがした。アバターを動かしている向こう側の友人というのを想像しながらコミュニケーションをする訳だ。

ここで話は戻ってきて、そこにはまさに沈黙交易的なやり取りがリアルタイムで進行していて、すごくこう、良かったのだ。そしてそこから、オンラインで見知らぬ人とアバターでやり取りする喜びってのは、ここにあるのだなとも思ったわけだ。しかもアバターというのは、限定された動きしかしない。その限定された動きから、相手の思考や伝えたいことを何とか読み取ろうとして、実際に読み取れたかどうか分からないという宙吊り感の中で、しかし確かに何かは交換しているというコミュニケーション感というものに、とてつもない喜びを感じてしまうのだ。

ふむふむ、なるほど。この、何かを介して向こう側にいる人間というのを想像しながら手探りでコミュニケーションを取ることが、何故こんなにも楽しいのだろう。これは単純に人との関わりの中の、関わるということのみが抽出され、他の雑多な要素が全て省かれているので、よりプリミティブなコミュニケーションというのが成り立つからであろうと思う。

もしも今後のVR空間において、アバターの限定された伝達手段がどんどん自由で豊かなものになってきてしまうと、それまではかなり限定されていたが故に具体化されなかった相手への想像力が、中途半端に豊かな表現力に擦り寄ることで、元あった豊穣な感性が簡素化されて貧しいものになってしまうことは、容易に想像できてしまう。

配達、アバター、VR、そのあたりの技術の進歩が、これらのプリミティブなコミュニケーションを成り立たせないほど半端な豊かさに育ってしまったら、多分もうこの世界は終わりだな等と想像するわけだ。

まあそこで、ぼくは、テロリズム的沈黙交易的な実践をたくさんやってこうぜ、ということを思いついたので最近そういうことを考えているわけなのだ。そういう暗躍するコミュニケーションというものは、最後のぼくらに残された豊かなコミュニケーションの道なのだと思う。みんなまだギリギリそれに支えられて保っているんだと思う。

テロリズムについてはなんにも言ってなかったな、まあいいか。沈黙交易がコミュニケーション自体を抽出するものだとすれば、テロリズムは体験とか実感とかを与えていこうみたいな話である。

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