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プレイしなくてもわかるポケモンの物語学:Nが嫌われる理由

ポケモンBW(ブラック・ホワイト)は、「このゲームによって『ポケットモンスター』は革新的に生まれ変わる」と銘打ってゲームフリークが社運を賭けて製作した作品であり、そして筆者のポケモンライフにおいて「第2の原点」とも呼ぶべき作品でもある。


BWは製作陣の意図通りに「革新的」な要素を盛り込み、斬新なデザインやモチーフのポケモンと数多くの人気キャラクターを生み出したことで、発売より多くの賞賛をもって迎えられた。その一方で、「ポケモンらしくない」といった非難や批評の的にもなり、リリースより10数年の時を経た今なお賛否(好悪)の分かれる作品である。


BWがある人々には根強い人気を誇り、別の人々の神経を逆撫ですることになった大きな要因の一つには、作中の登場人物であるNの存在があげられるだろう。Nは一方ではカリスマ的人気を誇りグッズ化が促進され、他方ではBWを批判するための餌食にもされる、言ってしまえばかなり「極端なキャラクター」なのだ。


今回はNが圧倒的人気を誇りながらも、一部のファンからは憎しみにも近い敵意を向けられる理由について、筆者の(非専門的な)哲学的・心理学的・社会学的知見をもとに考察しようと思う。


本記事をご覧になるにあたり、以下の5点をあらかじめご了承願いたい。

①本記事はポケモン公式とは無関係な個人的な見解に過ぎない
②学術的な厳密性はほぼ皆無である
③BWをプレイした数年前の記憶をもとにセリフやストーリーを再現する(なので色々な誤りがあるかもしれない)
④特定の個人及び団体を批判する意図は皆無である
⑤ネタバレ注意(本編をプレイしていない方は自己責任でお読みください)





「N」とはだれか?


閉ざされた自己


Nについて語るには、BWの世界観(設定)について語っておく必要があるだろう。物語はアメリカのある地域をモチーフにしたとされる「イッシュ地方」を舞台に繰り広げられる。


イッシュ地方には「プラズマ団」と称する組織が存在し、彼らは「ポケモンを人間から解放する」ことを主張している。


人間はポケモンと「共生」していると嘯きながら実はポケモンを「使役」しており、いわば「人間=主人」「ポケモン=奴隷」の関係にあるのだが、世間はその不都合な事実から目を背け続けている。
だから、プラズマ団は人々を啓蒙してポケモンに真の自由を与えるべく活動している、という宗教染みているとさえ感じられる背景を持つ組織なのだ。


プラズマ団の長であるゲーチスはポケモンの解放を言葉巧みに人々に語りかけ、プラズマ団は徐々にイッシュ地方において勢力を拡大していく。しかし、実はゲーチスの背後には「神の子=N」が控えており、少なくない団員がゲーチスではなくNを崇拝しているのである。


Nの素性は公には明らかにされてはいないが、「ポケモン言葉を聴き取れる」能力があること、それゆえに両親からは気持ち悪がられて「森の中に捨てられた」こと、加えて数学において類まれな才能を持っていること、などがほぼ確定的な事実として描写されている。


ゲーチスは里親としてNを養育するのだが、その教育方法はもはや「洗脳」とさえ呼べるものだった。というのは、ゲーチスはNを「窓一つない閉鎖された部屋」に「人間から虐待され、人間に激しい敵意を持つポケモン」と一緒に閉じ込めて、平和の女神と愛の女神と呼ばれる二人の女性に世話を見させ(監視させ)ていたのだ。


ゲーチスの「洗脳」は見事に成功し、Nは「ポケモンを人間から解放する」ことを自身の使命として、青年になる頃にはプラズマ団を率いる「王」となった。そして、チャンピオン(当時はアデク)を倒すことで世間への影響力を獲得することを目指し、生まれて初めて「外の世界」へと旅に出ることとなった。


「世界」との接触


Nはイッシュ・チャンピオンを目指す旅の途中で主人公(つまりプレイヤー)に出会う。その時に主人公のポケモンが「(主人公のことが)好き」と語りかける声を聞き、大きな衝撃を受けることになる。


というのも、ゲーチスによる洗脳教育を受けたNにとっては、人間とポケモンの関係というのは「主人と奴隷」でしかなく、束縛される側の奴隷が自らの自由を奪っている張本人に向かって好意を示すなど、とても考えられないことだからだ。


「ポケモンは人間に使役される可哀想な生き物」であり、「自分こそがポケモンを助ける救世主とならねばならない」と信じていたNにとって、主人公(とそのポケモン)との出会いは、自身の「イデオロギー(あえて信念とは呼ばない)」が揺らぐほどの体験だった。


この出来事以来、Nは自分の「イデオロギー」の正しさを確認すべく、主人公の道中何度も目の前に現れてはポケモン勝負を持ちかけるが、その度にポケモンと共に旅をすることで信頼関係を深めていく主人公たちに心を揺り動かされることになる。


「イデオロギー(真実・理想)」の崩壊


Nは主人公よりも先にチャンピオン=アデクを破り、イッシュ地方全域の支配を目論むプラズマ団は「ポケモンリーグ占拠」という暴挙に打って出る。



ちなみにこの事件は軍事的な観点からも非常に示唆に富む出来事で、ある国や地域を支配するためには「首都の奪取」こそが最重要課題であるという知見を踏まえていると思われる。
というのも、戦争において「敵国の首都の占拠」は国民や自軍の指揮を大きく左右する重要案件であるからだ。



歴史に実例を求めるならば、ヒトラーはスターリングラードとモスクワの両都市を攻略寸前まで持ち込みながら落としきれなかったために、国民の信頼を一挙に失うこととなり、結果的にはスターリングラードでの敗走を転換点としてドイツ国家を悲劇的な破滅へと追い込んだのだった。


話をポケモンに戻そう。



アデクに勝利してチャンピオンとなりイッシュ地方の実権を手中に納めたNは、人々にポケモンの解放を呼びかける前に、主人公との最後の決戦を申し込む。Nは主人公に勝つことで「人間とポケモンは信じ合える」という事実を完全に否定し去り、自身が掲げた「理想(真実)」の正しさをもう一度確かめようとするのであった。


しかし、Nが信じた「ポケモンは人間から解放するべき可哀想な生き物」という理想(真実)は、彼の目に映った現実、つまり主人公が築いてきた「ポケモンとの信頼」という真実(理想)の前に屈することとなる。


Nは自らの誤りを認めた上で「ポケモンと人間は共に生きることができる」というもう一つの理想(真実)を肯定するようになる。しかし、これまで信じてきた大人たち(主にゲーチス)の裏切りによって深く傷つけられたNは、主人公たちに別れを告げてどこかへと去っていってしまう。


Nが嫌われる理由


N=サンタクロースを信じた子ども


BW(無印)におけるNの出番はここで終わりとなる。殿堂入り後のエピローグでは伝説のポケモン(レシラムorゼクロム)に乗ってイッシュ地方を旅するNの目撃情報が入手できるが、主人公の前に再び姿を現すことはない。


ここまでにNが支持される理由と否定される理由があるとすれば、それは同じコインの表と裏のようなものであろう。
つまり、Nが見せる「純粋さ」が、あるプレイヤーにとってはある種の「憧れ」として映る一方で、あるプレイヤーにとっては自分自身の「目を背けたくなる一面=影」を見せつけられているような気分になるからではないだろうか。


Nは「ポケモンのため」に行動する。プレイヤーは舞台の裏側を知るにつれてNが「ゲーチスにより洗脳されている」という事実に気がつくが、N自身はあくまで「自らの意志で」「自らの使命として」ポケモンを解放するために行動しているつもりなのだ。


まるでサンタクロースを心から信じている子供のように、Nは「ポケモンの解放」というイデオロギーを疑いもしない。その「純粋さ」は、ある人々には「無垢さ」として好意的に受け止められるが、ある人々には「幼稚さ」として捉えられかねない、いわば危ういイノセンスなのだ。


「サンタクロースはいない」


だが、サンタクロースにしても「ポケモンの解放」にしても、どちらも大人から与えられた「イデオロギー=玩具としての信念」でしかない。ある日同い年の子供が「パパとママからクリスマスプレゼントをもらった」とサンタクロースの不在を何の前触れもなく告発してしまうのと同じように、Nは年の近い主人公から「あなたの信じていることは間違っている」と現実を突きつけられる。


もしもあなたの身近に、20歳になってもサンタクロースの存在を信じている人がいたら、あなたはいったいどう思うだろうか? 
おそらくだけどN否定派の人々はNに対して「いい歳をしてサンタクロースを信じている痛い大人」に感じるような恥ずかしさを抱いいているのではないかと、筆者は推測している。


何かを信じる人の「純粋さ」は、大人の目には痛々しく映るものだ。ゲーチスにとってポケモンの解放は、自分の野望を覆い隠すための「建前」でしかなかった。
そして、多くの大人は「建前」を上手に使うことで社会生活を営んでおり、時たま「建前」を理解せず「本音」を白日の下に曝け出すNのような若輩者が現れると、思わず「子供っぽいね」と見下したくなるものだ。


そう、BW(無印)において、Nは「子ども」なのだ。本音と建前をわきまえず、自分の信念を疑うこともなく本気で実現しようとする子どもなのである。
大人が子どもの「イノセンス」を目撃した時の心の反応は二つに分かれる。一つは懐かしさを感じること、もう一つは現実を見せつけてやりたいと感じること。


「サンタクロースはいない」と悟り直接両親に欲しいものを伝える子どもは、サンタクロースを信じて嬉々として靴下と手紙を用意する子供よりも「大人びている」ように感じられる。
それと同じように、Nを否定することでプレイヤーは「自分は建前・現実を知っている=大人の側にいる」という優越感に浸れるが、一方では「自分はもうサンタクロースを信じることはできない」という取り返しのつかない現実に苛立ってもいるのではないだろうか?


もっと飛躍した喩えを用いること許してもらえるならば、一度失われた「処女(性)」は取り戻すことができない故に貴重である(と一部の人が感じる)のと同じように、現実の残酷な色によって染められた「純粋さ」は二度として純白に戻すことはできないのである。


Nが多くの人々に好かれ、同時に多くの人々の嫌悪を催す理由、それは彼のひとつひとつの言葉や行動が発する「純粋さ」の匂いなのではないだろうか?
匂いの好みが千差万別であるように(汗の匂いが好きな人もいれば嫌いな人もいる)、「イノセンス」に対する反応も人それぞれなのかもしれない。


終わり


今回はBW(無印)に絞ってNについて語った。
次はBW2も含めてNについて語りたいと思う。


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