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人生から孤独を排除することは可能なのか

突然ですが質問です!

質問
生まれてから死ぬまでに『個人差が生じないこと』と言うものは存在するのでしょうか。

命を持って個人を特定され名付けられるまでにも個人差があることばかりではないですか。死への向かい方の方がきっとわかりやすく、死因は千差万別人それぞれですね。

また、まったく同じ生き物というものは存在しません。まったく同じと言うのは、ある二つを入れ替えても現象として何も変化が生じないことを指します。(物理学ではこれを対称性と呼びます)

分裂して増える生き物についても、分裂前と後でまったく同じ個体だとは言えないはずです。(生物学には詳しくないためこれ以降はその手の生き物について言及しません…)

しかし人をはじめとする生き物はすべて生まれることと死ぬことに関しては普遍的に本質的に共通しています。任意の生まれたものは必ず死ぬ。

言い換えると「誰があなたと入れ替わっても、死だけは回避できない」と言うことになります。

行きたくないバイトを代わってもらうとか、ショートケーキのいちごを代わりに食べちゃうとか(万死に値するが)そんな代わりは効いても、死ぬことだけはどちらにも必ず訪れるので「死なないで生き続ける」を代わってあげることも代わってもらうこともできません。

生まれると言うことについても同様に揺るがない共通点があります。

各個体の生から死までを一本の糸とします。生まれて始まり死んで終わる。(魂の存在や生まれ変わりなどは観測しようがないので霊感0の私が議論するに値しませんし、ここでは便宜上唯物論を採用することにします。)

糸の両端を生と死とすると我々に永遠はなく、必ず始まっていて必ずどこかで終わる。無限の命など存在しないと言う点においてのみ我々生き物は共通していて、個人差は生じません。

質問の答え
人は生死についてのみ個人差は生じない。

ただし両端があること以外に、その糸がどんな振る舞いをするのか、あるいは糸のとる形は千差万別人それぞれです。(前者はシュレディンガー描像、後者はハイゼンベルグ描像にあたるなあと思いました。メモです)

では、以上の考え方に基づいて
人生から孤独を排除することは可能なのか
考えていくことにしましょう。

始まりから終わりまで、与えられた一本の糸をなぞり、その糸上の経路を歩むのが人生だと私は考えています。

複数本の糸を繰り返しテキトーに投げて、全てがぴったり形が重なることがないように、命の経路は人それぞれ異なるのです。

ですから、真に同じ人生を歩むことができる人間は存在しません。(正確には実現確率がほぼ0と言える)

このことから常に誰かと意識や感覚を完全に共有するとか、複数人を一人の人間とし見なしても遜色ないように自分と他人を同一化することは原理的に不可能と言えます。途中から他人の命の経路に乗り移ってなぞるとか糸を溶け合わせることなど不可能なのですから。(あるいは他人と脳や神経を繋ぐなどすればできるのかしら?あまりに猟奇的過ぎますか?この思考は)

志や目的を同じくする人間が複数集まったとしても、必ずそりの合わない部分が生じるように、完全に他人と合致した人間活動は不可能だと私は思います。

共感や思考の共有は一過性のもので、原理的に人は孤独です。孤独を排除することなど到底不可能なのです。

その孤独は「あなたの」命の経路がただ一本しかないことに由来するので、いくら他人の糸と自分の糸を依り合わせようときつく結ぼうと完全に重なり一致することはありえません。

「だから全人類は孤独を受け入れろ!」とは言いませんが、「原理的に孤独を覆すことは出来ないよ」と主張したい懺悔ちゃんなのであった。

結論
人生から孤独を排除することは不可能である