キックボードで躓いたから

電動キックボードの規制が緩和されるらしい。
ただ自分は、「やめた方がいいんじゃないかな」という感想だけを抱く。
それは悪質な自転車のような「危険な交通弱者」が増えるから、という自動車運転者の苛立ちのような目線からではなく、実体験から。

キックボードに乗っていて記憶を失ったことがある。
小学二年生の頃。キックボードに乗っていた時、些細な石ころに躓いた。体感的には本当に軽く頭を打っただけなのだが、それから一日近く、自分には一切の短期記憶が定着しなかった。
翌朝起床して、前の夜と全く同じ台詞を言った時、父が大笑いしていたことをよく覚えている。両親としてはこのまま短期記憶が戻らないのではないかと相当に心配していたはずだけれど、そんな場面で大笑いできた父の肝は一体どうなっていたのだろう。今度訊いてみよう。

両親としては、その時に頭を打ったからむしろ頭が良くなったのではないか、などと我田引水めいた塞翁が馬めいたことを言っているけれど、本人からしてみれば、小さな石ころに躓くような人生はそこから始まっていたのかもしれない。



いつかの小さな躓きから、なんだかずっと精神的にマトモに戻れていない気がする。その「いつか」がいつだったのかすら、定かではなくなってきた。心が無くなるんじゃないかと思うほど削られた2020年の春からだったのか。2019年の秋に横浜の居酒屋で友人の親友に一時間半説教された時だったのか。あるいは、同じ年の春、職場の同期が誰にも告げずに退職を決めた時からだったのか。いつから自分はマトモでなくなったのだろう。躓きがさらに大きな躓きを生み、連鎖的に躓きを大きくしているような感じがする。


今の自分はどう考えてもマトモではない。マトモではない、というと乱暴な言葉で自分を客観視することを諦めているようだ、やめよう。冷静な判断力が無い。冷静な判断力があるならば、どうして心を削られるだけ削られた人ともう一度会おうだなんて思うだろうか。

シューゲイザーをこよなく愛するその人は、8月に遊びに行こうという。自分は拒否しなかった。拒否しなかったから行くことになった。拒否しなかった理由を自分は知っている。
もう一生会うことなどないと思っていた人、会えるものなら会ってみたいと思うのが普通なのではないか。普通ってなんだ。理性と感情が真逆を向いている。どちらが理性でどちらが感情なのかもよく分からなくなってきた。
加えて言うなら、さも向こう側を悪者のように書いておきながら、今回きっかけを作ったのは自分の方だ。そこまで支離滅裂な行動に出るまで思いつめていた理由を今更ここに書き連ねたりはしないけれど。
ただ、カネコアヤノの翌日にあると言われたライブを拒否する程度の理性は残っていた。単に面倒だっただけかもしれない。

戯れにバンドの名前をnoteで検索してみたら、いくつか記事が出てくる。大抵、アーティスト写真のトップに映るのはボーカルのその人。まあそれなりに後悔する。あんまり直視したいものではない。けれど、一時期精神を持ち崩していたというその人が、今でも生きているということが少しだけ嬉しいよ。

最近、好きな友人に会うたびに、8月のことを伝えてみている。力なくへらへらと笑って。それは懺悔のような、恍惚のような。

この前、カネコアヤノのライブ帰り、渋谷で豚骨ラーメンを食べながら「Spotifyの彼」にそれを伝えてみたところ、「あのシューゲイザー女だろ?やめとけやめとけ」と言われた。「シューゲイザー女」という表現があまりにもざっくばらんとしていて、思わず笑ってしまった。多分、彼のそういうはっきりしたところが好きだ。
以前、数年ぶりに会って彼の家で飲んでいた時、自分が中高六年間片想いしていた人のことを、「あんなのただのメンヘラだよ」と切って捨てていたのが痛快で、救われたような気分になったことを思い出した。自分にとっては、それくらいざっくりとした言葉で語る友人がいるくらいがちょうど良い。
中学一年で出会ってから、彼の人となりに好感を覚えながら、部活やクラス、所属するコミュニティの違いから段々と疎遠になってしまったのが残念だったなとただ思う。なぜ自分は、彼の近くにいなかったのだろう。

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