過去の忘れ物とは思いたくないけれど

親指の皮が剝けている。右手の親指の右側、人差し指に近い方。ここが剥けてくるのは、昔ならばちょっと良くない傾向だ。今はもう、あまり問題ないのだけど。


長年テニスをやっているので、特に利き手である右手は硬くなっているところが多い。親指の内側もその一つで、左手の親指と比べると皮膚が盛り上がっている。昔、特に乾燥する冬場になると、潤いのない皮膚が「割れる」形になってテニス中に痛みが出て、よく困っていたものだ。今はもう、だいぶ頑丈になったので、一番表層の皮が剥けるくらいだ。強くなったね。

これほど、今となっては自分の人生の一部と言える存在となったテニスだけれど、始めたきっかけは些細なことだった。入学した中学校に卓球部がなかったから、だ。小学校までやっていたスポーツは、というと少し卓球をかじっていたくらいで、他のことは特に何もしていなかった。必然的に卓球が一番の候補に入った。水泳も10年弱習っていたけれど、特に選択肢には入らなかった。学校には当時プールがなかったし、部活として続けようという気は全くなかった。何故だろう。中学入試でいくつか合格した学校の中で母校を選んだのは、実は「プールがないから」というのも大きな理由の一つだった。それほどまでに何か思いつめたものがあったのだろうか、今となっては分からない。

余談だけど、高校に入ってから母校にはプールが新設された。「プールがないから入学したのに!」と勝手に憤慨していた記憶はある。そこまでプールを毛嫌いした理由はなおも分からない。


入学当時のテニス部を取り巻く状況はというと、テニスの王子様ブームが去って少し経ったくらいで、一般的なテニス人気は少し盛り下がってきた時期だった。それでも入部者は非常に多くて、確か一年生だけで30人以上いたはずだ。前にも書いたけれど、母校は中高一貫で共学だった。部活の現役は5学年いて、さらに男女の活動があるのに活動日は平日3回に限られ、コートは4面しかなかった。当然、一年生がコート上で打てることなんてなく、球拾いどころか基礎体力作りのためにひたすら走らされていた。学年が上がっても、3日の活動のうち1日は必ずトレーニング日で走りこんでいたし、「第二陸上部」だなんてあだ名すら付けられていた。実際、トレーニング中に別の才能を開花させて、陸上部に転籍して活躍した同期だっていた。

自分たちが最高学年の時、男子テニス部の生徒数は限界で、部活動紹介では練習のキツさを強調して、なるべく新入生が入らないようにした。それがどうしてだろう、自分たちの入部時を越える、40人以上の新入生が入ってしまった。このままではどうにもならないと、ある意味「ふるい分け」のためにひたすら新入生に走っていてもらったら、ほとんど落伍者は出ず、屈強な基礎体力を持った部員が出来上がってしまった。


週2回のコート練習では足りなかったから、土日にもコートを取って自主的に練習していた。当時の僕らは、ひたすらテニスをする機会を求めていた。部活だけではあまりにも足りなかった。昼休みの自主練でも、朝の自主練でも数少ないコートは取り合いになっていた。特に練習時間の確保できる、朝練のコート争奪戦は熾烈だった。生徒たちが集まる時間はどんどん早くなりエスカレートしていった。やがて教員すら出勤していない時間に登校し始めて、ドアすら空いていない校舎になんとか侵入しようとした生徒達によって学校の警備装置が作動したところで、「朝練は7:30以降」というルールが新しく制定されて朝練騒動は沈静化した。

それほどに、当時の僕らはハングリーだった。土日に予約できるコートがなければ、無料で使えるコート(つまり、来た人から使える)で練習をしようと、始発電車に乗ってまで向かったものだ。冬の朝、まだ日も昇らない道を、白い息を吐きながら歩いたことを思い出す。「自称進学校」のあまり強い部活動ではなかったけれど、僕らの代になって男子テニス部は初めて県大会に出場した。もう少しで、母校として初めて県大会に出場した部活動になれたところだったのだけれど、それは同期の優秀な女子陸上部員に先を越されてしまった。


部活一つとっても、母校はエピソードに事欠かない場所だった。楽しかったな。あれから多くの人に出会ったけれど、教員も生徒も、当時が一番変わった人が多かったように思う。それが自分には楽しかった。自分は「普通」だったから。


ちなみに中学高校の部活時代、自分は一度も部活のレギュラーになれたことがなかった。部活動の出場枠も非常に少なかったので、公式戦に出られたことはほとんどない。ダブルスに二回出られただけだ。その当時の心残りが、今でも自分をテニスに駆り立てているのかもしれない。

過去の忘れ物を今になって取り戻そうとしている、とは思いたくないけれど。




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