【回想録】サナトリウム・風のはじまり

すこしむかし、ある秋晴れの日、私は森に向かいました

森林浴によって私の肥大した脳と脱力した身体は均衡を取り戻す――その予定だったのですが

いままでは安らぎをもたらしてくれていた頭上に広がる木の葉
それらはその日、黄、赤、橙、緑、その他散らばった色彩をして、出所不明の風に揺さぶられ騒いでいました
木々が、風が、私を攻撃するわけがありません
それでも不愉快で恐ろしい光景だと感じるのです
私の感覚は以前と比べ少し狂ってしまっているようでした


(ここから、逃げなきゃ)

また始まったみたいです

(みんなが私を嘲笑っている)

植物どころか、人混みのなかのひとびとが私を傷つけたことがあったでしょうか?

(怖い、ここからはやく帰りたい)

……ここもだめなら、どこへ?


私が私から解離して暴走しています
人混みを歩いている以上の情報量に脳は混乱し、膝をつきました 

そうして視界が捉えた木の葉が降り積もる地面にも、おどろおどろしい色と模様が満ちていました
目を閉じても、その色は瞼に血液のようにねっとりと染み込み、木の葉が擦れる音が糸のこぎりのように私の脳に食いこんでいきます

それらをできるだけ見ないように聞かないようにしてふらつきながら歩き続けると、ふいに空が開け、眩しい金色が広がりました
そこはすすき野原でした


すすき野原には幼い子がいて、
気が付けば私のとなりで私の手を引き、ここにあるものすべてに目を見開いていました
最初は怯えながらついて行ったのですが、すこしずつ、その子のことばや目線が私の意識を私の内側から遠ざけていきました

その子の真新しい感性から発せられる覚えたての言葉は、身体の動きは、ただただ世界を受け止める驚きと楽しさにあふれていて、この世界のどんな詩よりも詩でした
もうほとんど思い出せないけれど、ひとつだけ覚えているその子の発見は”すすき野原にて、風のはじまりは光だった"ことです
これよりもっと的確な言葉で、その子は風を表現しました
なにひとつ気の利いた言葉を返せない私に対してでも、報せる相手がいることで、その子自身の発見が反響しているようでした
私がその子のことばを反復すると、その子はたのしそうにまた反復しました

長らく、皮膚と空気がぶつかる感触、或いは木々が空気に突然殴られるような音で風を認識していた私は
遠くのほうの光の波が目に、それから波の音が耳に届いて
金色を深めながら私たちのほうへそうっと近づいてきて
はじめて頬に耳朶に触れ、また遠ざかっていく
そういう風を、そういう風のような感情を感覚を時間を
そういう言葉を
思い出しました


その瞬間から突然ということはありません

ただ、それから少しずつ私は世界を取り戻しはじめたのでした


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