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わたしはここにいる


芸術家。アーティスト。
そうよばれる人たちに憧れていた。


自分の命を削って描くことが。
書くことが。表現することが。
自分の使命だと。
書かなければ死んでしまうのだと。
そう信じていた人たちが。


その生きざまは人目にさらされ、評価され、ときには容赦のない批判にさらされ、それでもどうしようもなくかっこよくて。
選ばれし人にみえたのだ。
特別な人にみえたのだ。


名前を聞けばだれもが知っているような人たち。
常人には理解すらできない境地にいる人たち。
本人にあったこともないくせに。
その表面に。
人が語る”その人”に憧れているだけだ。
ずいぶん勝手もんだと、自分でも思う。


本当に命を削っていたのかは知らない。
でも彼らにはきっと
「書かなければ」
「描かなければ」
「ここに残しておかなければ」
そういう、魂の底から湧き上がるような衝動があったんだろう。
そう思って、うらやましくなる。


だってそれって、すごく生きているというか。

「自分という生」を余すことなく生きている。

生かされているのではない。

惰性で生きているのでもない。

自主的に、能動的に、生きている。


わたしはどうだろう?
ふと、考えてしまう。
ただ日々を垂れ流すように。
時間を、命を
食いつぶしてはいないだろうか?


うん。いや。
食いつぶしているのだ。確実に。
なんの身にもならない動画を、ネットニュースを、ただ垂れ流して。
翌日にはどんな内容だったか、まともに覚えてもいない。それくらいどうでもいいものに、時間を浪費して。


そんな自分に、もう飽きるほど嫌気がさしていて。でも、そんな自分さえもどうでもよくなるくらい、生きることに疲れることもあって。


「どうせみんなこんなもんだ」


そう自分に言い聞かせて。
うす暗い部屋のなか、ブルーライトで自分の目をいじめた。


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あれは、わたしがもっと小さかったころ。


空が一色ではないことに、ひどく感動したことがあった。


空と言えば青。
そう信じて疑わず、素直に青で塗りつぶしていたわたしに、だれかが言った。


空はもっと複雑で、自由だと。
時間で、天気で。
コロコロと変わるのだ。
一色だと決めつけてしまうのはもったいない、と。


ほんの些細なことだ。
それでも、わたしにとってはとんでもない衝撃で。


それからは空をよく見上げるようになった。

絵に描くようになった。

一色ではない空を。

青。水色。赤。紫。灰色。黄色。

一色ではない空を描けることが。

なんだか、とても、うれしかった。



”大人”と言われる年齢になった今。


"空を見上げなくなった自分”に、ふと気づくときがある。


それは年を重ねるということで。
忙しく、懸命に生きているということで。
あたりまえのことなのかもしれない。


でも、同時にとてもこわくなる。
自分の大切ななにかが。
感受性とか、そういう、自分が自分であるための大切ななにかが抜け落ちてしまったような気がして。


空なんか見上げなくても生きていける。
空なんか描かなくても。
想いとか、思いとか。
そんなもの書かなくても、生きていけるんだということが。
その事実が、とてもこわくなる。


命を削ってまで書くような。
そんな高尚なもの持ち合わせてはいないのだと、ようやく気付く。


芸術家とか、アーティストとか呼ばれる人に感化されて、ちょっと自分も書いてみたいなと思うくらいで。
常日頃、抑えきれない衝動を抱えているわけでもなく、ただただ、平凡に生きている。


でも、そんなわたしでも。

なにかを残しておきたい。

そう思って、ここにいる。

意味はあるのか、そんなことはわからない。

だれかのためになるのか、それももう、わからない。


でも、どうしても。


ただ垂れ流す日々の中で。


本音など消え失せた人混みの中で。

「わたしはここにいる」と。

どうしようもなく、叫びたくなるのだ。



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