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010.自然との距離感

 都会の人は言う
「自然を守れ」「大切な地球環境の保護をみんなで考えよう」

 田舎の人は思う
人間ごときが自然をコントロールできるとか本気で思ってるのか


”自然”という単語を聞いた時、都会と田舎でこれほど認識の違う言葉はないと思う。都会の人間にとって自然とは普段なかなか触れられないもの、見つけに行くもの、時に牙を剥くが基本的には守るべき存在。そんなイメージだろうか。

田舎の人間にとって自然とは一言でいえば”厄介な隣人”である。
彼らにとって普段の生活は自然との戦いの延長である。常に身の回りに存在し、こちらが一瞬でも隙を見せればするりと入り込み人間の生活をかき乱し、時に蹂躙して去っていく。敵というわけではないが馴れ合いも油断も許されない。

自然を守ろうというスローガンは都会の人間が作ったものだが、これは普段自然というものに触れる機会が極端に少ないためだ。実際には自然は人間に守られるほどか弱い存在ではない。

そもそも日本を支配しているのは植物である。人間は必死に100年かけてその一部を切り開き、なんとかその支配圏を維持しているに過ぎない。
田舎では住人のいなくなった家屋やその庭はあっという間に緑という名の怪物に呑み込まれていく。道路や駐車場のアスファルトの地面も常にメンテナンスしていなければ木の根によって簡単に波打つようになり、10年と経たず破壊されて木の根がせり出してくる。

家は湿気にやられ、カビが生え、柱は腐る。一夏放っておくだけで庭の雑草は子供の背丈ほども大きくなる。

都会でそういった現象を見ることが少ないのは、膨大な金額と時間と人件費をかけて常に整備という名の抵抗を行っているからに過ぎない。

そもそも人間が守ろうとしている”自然”は”人間にとって優しい自然”のことだ。有毒ガスが噴き出す間欠泉だって無数にブヨが飛び交う腐敗した沼だって自然のはずなのにそれを保護しようと言い出す人間は現れない。欺瞞だ。

毎年世界のどこかで大規模な火災がニュースになる。原因は熱波だったり乾季の落雷だったりするが、火災現場がその後どうなったのかは全くニュースにならない。

理由は簡単、元に戻るからだ。
乾季に燃えて雨季に芽吹く。サバンナでも毎年起こっている定期イベントを人間が大げさに騒いでいるだけ。
たとえ世界の気温が5度上昇して気候が激変したとしても、その時は新しい気候に適した植物が進出してきてこれ幸いと勢力を伸ばすだけ。何も変わらない。ヒトが勝手に嘆いているだけだ。

ヒトは自然には勝てないし嫌われたら生きても行けない。せめて適切な距離でお付き合いしていきたいと思う。


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