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何が嫌いかじゃなくて、何が好きかで語ることが正義なのは、私にとって、とても苦しい

僕は僕にとって好きなことを、相手に理解してもらえる形にして送信することがとても苦手だ。

ただ、それがなぜのか、今まであまり考える機会がずっとなかったから、重要ではないこととして、わきに置いておいた。

まあ、そういうもんだから。そういうもんだろうと。決まっていることは、決まっているものだからと。

ところが近頃急速に言われだした、あるネット言説によって、僕は、僕を点検して、吟味して、考えざるを得なくなった。

何が好きかで物事を語れよ。

この言説が力を持った事情はとてもよく理解できる。

誰かが何かを語るときに、何が嫌いかで論を進めると、その誰かにとって嫌いなものを愛している人々が不快な気分に陥る。それは良くないよね。もうちょっとうまい語り方があるよねといった話だ。

共感できる話だ。自分のこととして、理解できる話だ。

その人にとって良くないもの、嫌いなものは、誰かにとってすこぶる大切なものだという視点は、とっても大切だし、無視したりしたらいけない視点だ。

特に今のインターネットは一昔前、ある特定の属性の人たちが集まってコミュニケーションをとるものとは、わけの違うものとなった。

様々な趣味、志向、背景を持った人があふれかえっているのと同時に、あらゆる情報をつなげる場が整った環境が登場したのだ。

そうした場でコミュニケーションをとることを考えるなら、誰かをみだりに傷つけないこと。倫理的にふるまうこと。徳のあるふるまい方をすること。これらはとても重要なことになるのは必須だ。

だからこそ苦しい。なぜか。僕は好きなものの形をよく知らないからだ。

僕は、これだから好きだという感受性はあまり持ち合わせていないみたいなのだ。

じゃあその代わりに、どんな感受性が発達したか?

僕はこれは好きじゃないといった感性が発達した。

物事の嫌いな部分、不快に感じることに関してのレーダーが異常に強く、不気味なほどの神経質さが発達したのだ。

自分の感性と、何かしら事象が衝突するときに、不快なものを探し当て、否定する感性がすこぶる強いわけだ。というか自分には、ほぼこれしか搭載している受信機がない。

あれやこれやに関してあそこが嫌いだ、あれが不快だとは大騒ぎできるが、あれのこれがいいのよ、ここがチャーミングなんだよね、といった話は全然できない。くそほど感じの悪いやつだ。

ところがこの語り口は、閉じている同族集団、同質集団にはくそほどに受けがいいが、異なった前提を持つ、いわゆる他者に対してすこぶる受けが悪い。

口を開くたびに否定が飛ばす機械は、無用に人を傷つけてはならない規範の支配する場にとって、すこぶる目の上のたんこぶ的存在だ。

十分に理解。だけど俺は、この感性を長いことかけて研ぎ澄ましてきちまったわけだ。

だけど変わらなくちゃならない、俺は人の気持ちを考慮して、きれいなふるまいができる大人にならなくちゃならない。

思慮深さとやさしさと広い視野を学んでいこうと思う。

だけどもなんだか面倒だな。

人生でこれまでに発生しえなかった、私にとって不自然な思考を、この身に宿そうってわけだしさ。

否定し続けることでしか、たどり着けない場所もあるだろうと、自分のこれまでも正当化したくなる。

でも、どうしても、私には人を傷つけないような語り口が、至上の正義だとは思えない、未熟者の戯言であった。

未熟者の戯言でありながら、心の底から出てきた本心であった。



追記
「なにが好きかを語れよ」言説の立ち上がってきた背景、多様な価値観を持つ人々がいる場においての、規範的なコミュニケーションを書き出す箇所で力尽き、このテーマで文章を書くこと自体に飽きてしまった。

そのせいで、力ない捨て台詞を吐いて無理やり終わらせたこの記事だが、書いてきたことをもう一度自ら読んでいるうちに、漠然と疑問が浮かび上がってきたのでこれを書く。

確認したように、私にとって嫌悪する対象が、誰かにとって愛してやまない対象であるとは、おそらく皆さんも体験したことのあるような、この世界の事実ではある。

そこから、雑多な背景を持った人が穏便にコミュケーションを取れるように、誰かを不用意に傷つけるのはよそう。意図しない形での価値の対立は避けようといった、ある意味政治的な規範、優しさ規範、道徳規範が導かれる。代表的なのが、本文で取り上げた、好きで語れよ言説。何となくだが正しくはありそうだ。

だがこの言説自体が誰かを傷つけているとしたらどうすればいいのか。

つまりは、好きなことを語るのが苦手で、嫌いなことばかり垂れ流すスピーカーのような奴の口は、ふさいでおくことの正当化、正統化は可能か。可能であればどのようにするべきか。

「好きで語れよ」言説は、誰かの自由な語りを阻害する要因の一つであり、また、この二つの言説は競合しているようにも見える。

その場合、自由に語ることがいいこと言説と、なるべく不用意に傷つけないようにするべき言説は、どちらがどのように優れた言説なのか、またどちらが優先されるべきなのか。あるいはこの二つの言説を、うまい具合に乗り越えられるような言説をつくれるのか。

さらに抽象化して一般化してみれば、これはもう完全に違う命題になってしまった感があるが、自由と規範はどのように競合すべきか。自由と統制はどっちをとるべきか。みたいなものも出てくる。

また、心に傷がついたという認識は極めて主観的なものである。それにちなんでこんな問いもどうだろう。きわめて繊細な、あらゆる視点から正しい言説が、それでも誰かに傷をつけるならどうする。

さて好き勝手問いばかり量産してきた。

そして私はもう本当に疲れてきてしまったので、これらの問いに何一つ答えることなく記事を終わらせようと思うのである。

なんかもうめんどくさくて嫌ですわ。考えるってカロリー高くて、まあしんどい。

最後にまた思いついたので殴り書き。

ひたすら批判すること、否定することで、好きなことへの輪郭もまたはっきりするとも思っているのだが、この方法が否定されるのなら、ほかにどんな方法をとるべきか、どう語らうべきなのか指針が欲しいのだが、誰か知らんか。好きで語る以外で。

個人的には否定することでたどり着く場所と、肯定することでたどり着く場所は違うと思ってる。だから好きで語ったことが、嫌いで語ったことを置き換えれるといった考えは、違うと思う。

もう疲れたから終える。もういいや、どうでもいいや。もう寝るわ。

言いたかったのは、何かを強烈に否定する言説は不快極まるものだが、効用はあるということである。

ここまで書き連ねる必要がどこにあったか。

謎は深まるばかりである。

そして、一番初め、冒頭で私が私に問うた疑問に答えるとすればこうなるだろうか。

私が好きなことを相手に理解してもらえる形にして送信することがなぜ苦手かというと、私自身の、好きなものはこれではないといった形でしか受信できない、感受性のゆがみと、奇妙なこだわりにより表現がゆがみ、相手が受け取れる情報に変換できない癖があるから。

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