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一年ぶりに酒飲んだら鬱が来た

タイトル通り。

楽しい気分は一瞬で、むしろ気分が上がって元の場所に落ちてくる、その幅を自覚してしまうことが鬱の引き金になった感じ。

だるい。なんかしてないと焦燥感がきつい。

腹がよくなって調子に乗ってしまった。

腹痛と血便を出さずに過ごせるのは実に一年ぶりだったから調子に乗った。

酒も自由に飲めないなんて、不自由な人生だな。

はあ。

酒がというよりかは、その後の睡眠の浅さによって、気分の落ち込みが誘発された感じもする。
面倒くさい。


生きる意味が欲しい。

生身の現実感を引っぺがしてくれるような浮遊が欲しい。

生きる意味なんてなくても生が続くのなんて、とうの昔に腹落ちしてる。

どれだけ最悪の状況に落っこちても、生が続くことこそが残酷なことだとよくわかっている。この身で知っている。

それでもやっぱり生きる意味が欲しい。

だからこそ生きる意味が欲しい。

嘘じゃないものが欲しい。

人間はパンだけでは生きられないのを、また再確認した。

いったいもう何度目だろうか。

キルケゴールの言う、無限と有限の間を、永遠と時間の間を、自由と必然性の間をぐるぐる行ったり来たりして、そのたびに疲弊している。

俺はああなるはずだったのにと、俺という人間の能力、性質からしてこうなるよなというその間で、ひたすらに葛藤している。

もう何年無駄にしたのだろう。もう何年一人でいるのだろう。

キルケゴールがなぜキリスト教をあそこまで強く信仰したのか、呪われた身体という共通性を持っているとわかる気がする。

ただ、わかるわけではないさみしさ。

人は自分が経験しないことは、絶対にわからない。

知識として知っていることと、実感として体験することでは、あまりにも距離がある。

言葉で知っていることと、その身で知っていることの距離をまた再確認して孤独を深める。

結局人生とは、一人きりで生きることなのかもしれないが、一人で生きるというのはつらいものだ。

結局キルケゴールはキルケゴールにしかわからない。

結局私は、私にしかわからない。

わかってほしいと強く願うのは傲慢だろう。

だけどもその傲慢がかなわないものだとしたら。不可能なものだとしたら、とてもさみしい。

何者かになろうとすることは、何らかのメディアや言説で、作られたものだとは知っている。

でも知っていても、知っていても心の底の方から、それがわめきだしてくるのは抑えられない。

人間は一度知った物は忘れられない。

果実の味が簡単に情報として流れてくる世界で、自分がそれを知らないことを知ったのなら、なぜ自分は果実を知らないのか、果実が与えられないのか、なぜあいつが与えられて、私には与えられないのかの葛藤は絶対に起こる。

それがたとえ倫理に反し、道徳を踏みにじるものだとしても、一度受け取ってしまった欲望は消えることはない。

それを源泉にして、違うことの糧に昇華するといったことが言われているが、それは絶対にない。

受け取った欲望は、熱望せざるを得ない願望は、ほかのもので代替できない。

それは、それ自身を実行することでしか、解消しえない。

私は生きる意味を渇望する。

社会的な何かになることを渇望する。

もう自分の欲望の源泉が、自分自身のものだったのか、社会の欲望なのかはわからない。

私は欲望を欲望する。それがなぜなのかはわからない。

それでも私は欲望を欲望して絶叫する。

自分の耳すら、聞こえなくなるような絶叫。

自分の声すら聞こえなくなる絶叫。

平和な先進国の、穏やか過ぎる日常の中、もはや生をつなぎとめるような物語が消えた、そんな中で一人生きる。


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