虹彩の記憶Ⅰ~緋色の鈴~[prologue]

 暗い暗い、真っ暗の中。何も見えない、何もない。
 そこには壁も無ければ床も無く、自分が落ちているのか浮いているのか、もはや動いているのかさえもわからない。
 僕は、何をしていたんだっけ?どこに向かっていたんだっけ?誰を探していたんだっけ?
 何かを思い出そうとしても、何も頭に浮かばない。

 「誰って、誰なんだろう」

 暗闇の中、ぼんやりとした思考の中、彼はつぶやいた。
 ふと瞬きをすると、彼がその目を閉じていたほんの一瞬の間に、彼の目の前に少年が姿を現していた。
 突如現れた人の姿にぎょっとして一瞬声を上げそうになるも、よくよく見るとその姿は彼がよく見慣れているものだということに気が付いた。

 顎先まで伸びた、少し長めの薄茶色の髪と、何か別の二つの色が混ざり合ってできたような、けれども透き通った茶色の瞳を持った、十代半ばの少年。
 薄黄緑色をした襟付きのシャツに、薄茶色の膝丈ズボンについたサスペンダーは片方の肩にだけかかっている。
 服も顔も腕も足も、泥なのかはたまた血によるものなのか所々薄汚れているが、胸元にかかったペンダントに付いている翡翠色をした宝石は、透き通った光を放ちながら美しく輝いていた。
 ああそうか、これは鏡なんだ。彼の前に姿を現したこの少年の顔は、彼自身とそっくりそのまま同じものだったのだ。

 それにしても酷くぼろぼろだ。視線を落として自分の姿を改めて眺めていると、腕や膝を大きく擦り剥いていて、体のあちこちに血が滲んでいる。しかし、不思議なことに痛みは感じていなかった。
 再び視線を上げてみると、そこには変わらずぼろぼろの自分の姿。ずいぶんと顔がやつれている。いや、青白くなっている?
 目の前に映る自らの姿をまじまじと見ていると、傷だらけといえどまだ少し赤みを帯びていた肌からは、みるみると血の気が引いていき、どんどんと青白くなっていくではないか。
 慌てて視線を落として、開いた自分の手のひらへと向けてみる。だが、どうやら自分自身の姿に変化はないようだ。

 もう再び顔を上げて自らの虚像に視線を戻す。すると血の気を失った“もう一人の自分”にまた変化が現れた。長く伸びていた髪は、逆再生でもしたかのように縮んで元より少し短くなり、薄汚れてぼろぼろだった衣服は、足元までもの全身を覆う黒いマントとなり、胸元に輝いていた緑の石は、その光をみるみるうちに赤へと変えていった。
 顔こそまったく変わらないが、その姿は見違えるほどで、自分ではない別人かのようだった。
 だが、彼には自分がすることのないこの姿に、奇妙な既視感のようなものを抱いていた。覚えはないはずなのに、何故だか知っている。そんな気がしてならなかったのだ。

 自らとは異なる姿を映す鏡に近付いてみる。彼が動いているにも関わらず、鏡に映る虚像はびくりともしない。
 いや、鏡ではない。目の前の虚像だと思い込んでいたものは、確かにそこに存在していたのだ。なにせ、彼の手はその少年の肩に触れていたのだから!

 驚きから慌てて手を離そうとしたそのとき、さらに驚くことに今まで微動だにもしなかった少年に左腕を掴まれていた。
 痛みは無い。けれども振り解こうにも一切動かすこともできない。
 視線がまっすぐ合った。姿を変える前に比べて、その表情も眼も心なしか暗く見える。
 鏡を見ているかのように自分と同じ、されども違う姿。その奥に暗がりが渦巻く焦げ茶の瞳には生気がないが、まっすぐとこちらを見据えるその瞳から目を離すことができなかった。

 互いにまるでこの虚無の空間に貼り付けられたかのように動かず、ただ見つめ合う。口から言葉が出てくることもない。
 頭が上手く回らない、何も考えられない、頭のてっぺんから徐々に思考がどろどろと溶け落ちていくような、そんな感覚に陥りそうになっていると、こちらを見つめる二つの焦げ茶の瞳の中に、少年の首に下がったペンダントの石と同じ色の赤い光が灯り、そこから伝染するように、暗闇を照らす真っ赤な炎のような光を髪へとも纏いはじめた。
 嫌だ、怖い、離れたい。触れれば本当に燃えてしまいそうで、恐怖からか握られている腕に力がこもった。けれども体は動かない。
 少年の髪や瞳と共にその胸元のペンダントの輝きも増していき、その光はやがて少年の体の中央から腕を伝って、しっかりと捕らえられた彼の左腕へ触れようと手を伸ばしてくる。
 だめだ、もう逃げられない。

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