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音階を跨ぐ!~We Are The Champions??

YouTubeで細野晴臣さんが出ている前世紀末に放映されたテレビ番組を拝見して、ふと思い出したことがありました。

錦糸町〜スカイツリー辺りでやってる墨田ジャズフェスに以前行った時に感じたことを書かせていただきます。

メインステージのトリで、”沖縄のグランドマザー”登場。
沖縄の心を唄う、という人。
名前は、すいません、ど忘れしました。
・・・検索してみて下さい。

さて、そのグランドマザー、歌い出したらいきなり凄いピッチ。
”なんじゃこれは?
”若干音痴?
"それともお年?
最初はそんな風に思ったのですが、もっと歌にフォーカスして聴いてみると。。

これは、、音階の方が違うんじゃないか?!

西洋音階に慣れてきたからね、、
デジタルピアノの音やアコギではどうもうまくかみ合ってない。
三線とだと割とシックリきてる。

話は飛ぶが、かつて音楽の仕事を始めた頃「グリッサンド禁止令」を出されたことが。
が、今思えば、12音階では表現できない何かを感じていたのかもしれない。。。
な〜んと、超自己肯定(笑)です。

グリッサンド以外にも、ワウ、ポルタメント、フィルター、、、数えればキリがないくらい音階や音を超えて揺らしていきたいという本音が鎮座しています。

話を戻して、、、
沖縄戦の鎮魂歌。
ライブというより儀式のようでした。
音楽の元々持っていた役割かな、ふとそういう思いがよぎりました。

不思議なもんで、、
始まったころはなんとなくざわついていた心が、段々静かになっていくのを感じる。
多少お酒が入っていたからかもしれませんが。

鎮魂が行われた、そんな気がしました。
この国には、まだ要・鎮魂なモノが沢山あるのだなぁ、、そんな実感。

唐突ですが、QUEENの"We Are the Champions"
歌詞の解釈は微妙に色々ありそうだが、あの曲で歌われている"Champions"の"We"と、
"no time for losers"の"Losers"は、同じなんじゃないか、と思うんです。
勝ちばかりの人間なんて居ない。
敗北から立ち上がらなかった"Champions"なんて居ない、そんな風に。

現代西洋のアンセムの象徴みたいなこの曲で、誰もが勝者になれるし、そして誰もが敗者だった、なんていうことを感じる。
戦勝国もほんとのところは勝利してないんじゃないか。
いや勝ったのは確かだけど、その勝つことに縛られて、ず〜っと「勝つこと」に負け続けているのかもしれんなぁ。
この曲を聴きながらそんなことを。。。

もう一度話を戻し、、、
鎮魂の歌の後に、踊りの歌。
会場で阿波踊りみたいなのが始まる。
ある種トランス。

鍵盤楽器で奏でるコードは確かに気持ちいい。
けど、本当に意味のある和声を出せているだろうか?
と常に疑うことは必要だと思った。
ジャズのテンションノートはキレイに積み上げていくことで起こる慣れからの無思考へのアンチテーゼから始まったのかな、と想像してみたり。。。
マイルスがハービーに「バターノートは弾くな」と云ったらしいけど、、、、、感じますよね。

先のグリッサンド云々もそうですが、西洋音階からはみ出したい衝動が確実にある。
でも、八百万の神が跋扈しているだけなのかもな、とも思うこともある。
迷惑な神も居る、でも居ていい。

昔から、戦いに臨む前に祭りのように景気付けして、、
また、陣太鼓というくらいだから、戦の最中も音で高揚させてたのだろう。
音はアジテーションの道具としては強力だから、気をつけないといけないな。
昔からなんとなくそんなことを思っていました。
そして、改めてロックやジャズも含めたポップスの素敵さ、有難さも身に沁みる。

ただ、祭り的なものをこそ今の世は求めているんではないでしょうか?

爆発とでもいいましょうか、様々の見えない、または不感症になって感じてることさえも忘れてしまっていることにしっかと目を向けて、今日も実践ですワ。

日常にすべてのヒントがあるんですね、つまるところ。

音楽の未来が少し見えた、、かな。

今日も地球が穏やかであったことに感謝。

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