異邦人
この前、日本のPOPS「異邦人」を久々に聴いていた。
実は、子どもの頃からこの曲をずっと好きになれなかったのだ。
ところが、この前聴いたとき「え?」そういう意味だったの?
という感覚になった。
人に歌い継がれたり、人気があるものには、込められたエネルギーがあって
それをちゃんと感じている時と、どこか上っ面でしか聴けていない時がある
のではないかと思った。
そのスタンスを表現するとしたら、
現実的な部分ばかりで生きているとみえなくて、子どもの時のような感覚で生きている時には出会えるような、
それはとても心地のよいスタンスのことだ。
例えるなら、2つの流れがあって。
歌を聴くにしても、ひとつはなんとなく好きじゃないという時と、
もうひとつはエネルギーじたいを受けて聴いている時がある。
歌の「悲しみ」の部分にフォーカスして聴いている時と
言葉と音による世界観の壮大さを感じながら聴いている時とでは
感じ方が全く違うのだろう。
「空と大地がふれあうかなた」
と詩も曲調も大きな世界間を感じるが、
この詩の中には「悲しみをもて余す」とくり返されている。
その部分は、現実の悲しみに引き戻すような音調に変わる。
子どもの頃は、聴いたことのない曲調と使われている言葉から、悲しみをメインにしている歌かと思っていたけれど、今なら異邦人の豊かさや可能性が見え隠れするようなところがたくさんある。
これは、きっと私の感じ方の変化なのかもしれない。
今までの価値観がガラッと変わったところで、
歌の中に流れているものが変わる。
これはとても興味深いことだなぁと思う。
実際、人は自分の思った世界だけが現実の世界なのだから。
頑張りすぎる中ではみつけられない、新しい世界だってあるのだ。
異邦人だからこそ、自分じゃなくなるくらい頑張って努力してきたから、
それとはちがう方向へむかいはじめた世界のはじまりは、
新鮮な歓びそのものだ。
強いて言うなら、ものすごく急いで食べたランチと、じっくり味わいつくしたランチほどの違いがあるのと似ている。
これは、喜びの中でいたいのか、そうでない世界にいたいのかくらいに大切なことなのだ。
それは本来の自分自身であることだし、何者かになるのとは違う。
自分のホームにいるということなのである。
#エッセイ #感謝の手紙#ホーム#異邦人
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