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2年生、修了

12月、毎日登校した娘は、冬休みなんていらない、学校に行ってお友達と遊びたいと話していた。それでも、クリスマス、お正月という子どもにとって魅力ある2大イベントには心躍らせ、休みを満喫した。

3学期が始まった

娘の通う小学校の冬休みは短く、12月28日から1月5日まで。あっという間に過ぎた。12月の勢いはまだ残っていて、始業式の日も娘は登校した。

娘は、週明けの月曜はいつも休んでいたが、火曜から金曜までは登校していた。ある金曜日、下校するなり

「今日は最悪だった」

と言った。

席替えがあり、苦手な子の席の近くになったらしい。それがとても嫌だと話してくれた。月曜は行けない、とも言っていた。

私は、この時初めて、クラスに苦手な子がいることを知った。けれど、大人にだって、苦手な人はいるものだし、その子との関わりから学ぶこともあるだろうと思い、

「それは最悪だったね。どんなところが苦手だと思うの?」

と尋ね、娘の話を聞いた。娘は詳しく話してくれた。

この席替えの影響は大きかった。

登校すること自体に、まだ勇気もエネルギーも必要だったが、さらに教室に入るための勇気とエネルギーが必要になったからだ。やっとの思いで登校しても、教室に入るのに、ものすごく時間がかかるようになった。本当は入りたいのだろうが、入れないと泣き、そんな自分にイラついているのか、眼鏡を廊下に投げつけ、体操着の入った袋を蹴り、踏みつけていた。

その姿に、先生は先週までと違う何かに気づき、理由を話せるなら教えて欲しいと娘に言った。ためらいながら、娘は理由を先生に打ち明けた。先生は、別の席に変わってもいいと言ってくれたが、娘は断った。自分だけ特別扱いされるのは嫌だと言い、乗り越えようとしているようだった。

学校の冬は寒い。娘が教室に入るまで、一緒に廊下で過ごしている私は、その時間が1時間、2時間となると、芯から冷えた。娘が時々「来なきゃよかった」と言うのを聞くと、そんなことは家を出る前に言え!と内心思ったりもした。

だが、娘が懸命に乗り越えようとしていることが、言葉にしなくてもよく伝わってきたので、私はとことん付き合う覚悟で、カイロを背中とお腹に貼って付き添った。

鬼は、内・・・

そんな頑張りも、次の席替えと共に終わったはずだったが、娘は再び休みがちになった。私は、週に3日も休む娘を見てイラついた。そこには、12月には毎日登校できたことや、娘にとって好ましくない席順の期間も乗り越えた娘への期待があった。

振り返れば、登校に伴う緊張や不安、心配に加え、席で感じるストレスもあり、疲れが出ていたのだと思う。口内炎が出来たり、眠気が取れない様子もあった。

なのに私は、自分の勝手な期待値に娘が沿わないことを責めた。ある朝、体がだるい、熱があるかもしれない、給食が口内炎にしみる、休もうかなぁ、と娘が言うのを聞いて、一方的に学校に欠席連絡を入れた。

娘は怒った。

「休む、って言ってない!何で電話するの!?」

反射的に私は

「席替えが気に入らなくても普通の子は学校に行くの!口内炎で学校休むなんて聞いたことないわ!車で登校してる子なんていないし、うちは普通じゃないの!」

と怒鳴っていた。

その瞬間、自分の発した言葉にハッとして、すぐに娘に

「ごめん、『休むの?どうするの?』って聞かなかったね・・・。ママが勝手に行かないんだって決めて、勝手に電話してごめんなさい」

と謝った。後悔と自責とで、私はぐちゃぐちゃだった。

ぎゅっと抱き合いながら、しばらく二人で泣いた。

落ち着いてから娘は

「節分だから、立春だからって、お部屋をきれいにお掃除して、福を呼ぼうとしたはずなのに、鬼が来ちゃったみたいだね」

と言っていた。

夜、私宛に娘が書いてくれた手紙には

「みんなとちがう子どもでごめんなさい」

とあった。

・・・鬼は、私だ。

一つの卒業

家で私から受けたストレスで、相当なダメージを受けた娘の回復には、一定の時間が必要だった。私は、これ以上暴走しないために、何ができるかを一心に考え、できることは片っ端からやった。

3学期も半ばを過ぎ、6年生を送る会の準備が始まった。1時間目の授業が始まる前に、2年生全員が校庭で歌の練習をするようになった。

ある朝登校すると、2年生全員が外に出てきて、歌の練習が始まったタイミングだった。娘は駐車した車の中から窓を開け、歌詞カードをランドセルから出して、聞こえてくる音楽に合わせて一緒に歌っていた。練習が終わり、皆が引き上げたのを確認し、車から出て校舎に向かおうとした娘の前に、校庭にぽつんと一人残っている子が見えた。

その子は、同じ保育園出身で0歳の時からのお友達だった。

娘はすぐにその子のところへ駆け寄り、声をかけた。私が近づいていくと

「ママ、もうここでいいよ。バイバイ」

と、先生に促されるその子と一緒に、校舎の中へ入っていった。

歌の練習後、そのお友達と二人一緒に校舎へ入るのは、6年生を送る会当日まで続いた。歌の練習がなくなってからは、検温チェックをしてくれる先生と一緒に、中へ入っていくようになった。先生方が誰もいない時は、誰か先生が通りかかるまで待っていた。

以来、私は校舎に入っていない。

手紙の交換

家には、娘と私とで手紙を交換するために作ったポストがある。娘は、私と玄関で別れるようになってから、毎日手紙をくれた。学校での出来事や、下校後に家でやりたい遊びのこと、家事への感謝などが書かれていて、いつもほっこりした。その手紙に、

’’ 今日は、朝の会から教室に入れたよ。いっぱいほめてね ’’

と書いてあった。私は手紙を読んですぐに

「朝の会から入れたの?すごいじゃん!」

と言うと

「すーっと入れたんだよ」

と娘は照れ臭そうに笑い、嬉しそうだった。

自分で大丈夫だと判断したタイミングで、親ではない人の力を借りながら、教室に入ることができるようになったことは、自信になっているようだった。

そして、手紙の最後には毎回、

’’ だいすき’’

と書いてくれた。

私も毎回、

’’ 大好き’’

を返した。

最後の難関

毎朝の車での送迎は続いていたが、娘の最終的な目標は、通学班で登校することだった。

時々、手紙に

’’ 通学班で行けるように、がんばるね’’

と書いてあったりもした。

我が家が住む地域では、毎年、班編成があり、卒業・入学・転出転入だけでなく、班のメンバーを総入れ替えしている。3月になり、次年度の班編成があり、修了式直前に、新しい班での通学が始まる。

新しい班の班長さんは、歌の練習があった時、校庭に一人残っていたお友達の、お姉さんだった。他のメンバーも、同じ保育園出身の子が多かった。それを知って安心したのか、新しい班で登校する日をカレンダーに書いて、目標にしているようだった。

その日がやってきた。

いつもなら、のんびり過ごしている時間帯だが、集合時刻を意識して、焦り気味に支度をした娘。

「集合場所には、早めに行きたい」

と、集合時刻の15分前に、集合場所に行った。

通学班の集合に向かったのは、入学式翌日以来だった。

ぽつぽつと、子どもたちが集まり始め・・・居心地悪そうに、モジモジし始めた娘だったが、同じ学年のお友達に声をかけられ、並ぶ場所へ促され、しぶしぶついて行った。

並ぶとあっという間に出発時刻になり、娘の後ろ姿は小さくなっていった。一度も、私の方は、振り返らなかった。

2年生最終日

娘の2年生としての学校生活が終わった。修了証をもらって帰宅した娘は、晴れ晴れとした表情だった。

分散登校に始まり、完全に登校しない期間もあり、運動会というきっかけで気持ちが学校に向き、そこから少しずつ、挑戦し続けた一年だった。その挑戦も、先生方の見守りや、お友達の力なくしては、成しえなかった。

そして、娘を通して、あらゆる方向から、より一層、自分自身と向き合うことになった一年でもあった。私自身が一番、成長させてもらえたことに、感謝である。

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