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自分の「内側」に気づくとは

娘を応援するどころか、傷つけてしまった分散登校二日目。翌日は休みだったのは、幸いだった。

私は、じっとしていられない性格なので、娘や夫が、ゴロゴロしているのを見ると、どうしても時間の無駄遣いだと思ってしまう。本格的に体調不良の時だけが、横になっていい時というわけではないのに。走り続け、動き続けることが正しいわけではないと、自分に言い聞かせ、ゆっくりする時間、ぼーっとする時間を受け容れる努力をしようと決めた。

分散登校 三日目

そうして迎えた、分散登校三日目。この日も通学班での登校だったが、二日目と違い、娘は集合場所に行って、震えたり動けなくなることはなかった。お友達のママさん、パパさんに声をかけ、普通に話しながら、通学班で登校していく子どもたちを観察し、集合場所に誰もいなくなったことを確認してから出発した。

すんなり出発できて、時間的にも余裕があったので、私は学校に連絡を入れなかった。だから門に着いても、担任の先生が迎えに来てくれてはいなかった。子どもたちは既に、中へ入っていて、門の周りには誰もいなかった。それでも娘は、

「じゃ、行ってくるね」

と言い、私のほうは振り返らずに、真っすぐ、2年生の教室のある校舎へ向かって歩いて行った。

自宅へ戻る前に、私は、娘が学校に入れなかった時に頻繁に足を運んでいた、校門前のお店に寄った。おばさんは、いつものように笑顔で迎えてくれ、私が一人であることに驚いて

「学校、入っていったの?」

と聞いた。

そうだと答えると、数か月前の姿がウソのようね、と笑い、

「大人にはわからない、本人の中の何かがあるのね」

と言った。

本当にそうだ。

環境の変化に慣れるのに時間がかかるのは、知っていた。保育園の時もそうだったからだ。ただ、今回の臨時休校期間を経ての、学校再開は、娘にとって、新年度も迎え、クラスも担任の先生も変わり、校舎も変わるという大きな変化だったはずである。だが、大人の予想を超え、前に進んでいく娘の姿を見ていると、彼女の中で、はっきりと、何かが変わり、それを言語化できないまでも、自身がよくわかっているのだろうと思った。

少しずつ・・・

この日は、迎えに行った時も、娘は元気そうだった。通学班の中に混ざることはできなかったが、門まで担任の先生に付き添われ、にこにこしながら歩いてきた。

先生と別れ、歩き出すと、今日は帰ったらお友達と遊ぶんだと、嬉しそうに話してくれた。相変わらず、学校で何をしてきたかは、忘れてしまったらしい(笑)。そして帰宅早々、

「後からママも来てね」

と言い残し、いそいそと遊びに出かけて行った。

保育園のお友達に会うことに、ためらいも、久しぶりの恥ずかしさも見せなかったが、そうでないお友達と遊ぶ気持ちになれたことも、娘の内面の変化で、私は嬉しかった。少しずつ、慣れてきたのかもしれない。あるいは、分散登校二日目に、外で遊ばないことを責めてしまったからか・・・(-_-;)

これから、毎日、分散登校が始まる。午前に登校したり、午後に登校したり、スケジュールを把握するのに私があたふたしそうだが、1年前とはまるで違う日常生活を楽しめるような気がする。

内側の変化を感じとる

自分の中で感じたことや、心境の変化を、自分でわかっているというのは、簡単なことのようで、意外とそうでもない。娘を見ていて、実は、子どものほうが、その能力に長けているのではないかと、私は最近感じている。

大人の中で、自分の中の感情の移ろいを、全てピックアップして、しっかり感じている人は、どのくらいいるだろうか。意外と少ないから、「マインドフルネス」が流行り、今この瞬間にフォーカスするトレーニングが、ビジネス遂行においても重要だと言われているのだろう。

かつて子どもだった頃、私たちは皆、自分の感情を感じて、その変化を感じ取れた時期があったはずだ。その変化を、うまく表現することができなくて、悔しい思いをしたり、わかってもらえない悲しみを感じたことは、誰にでもある経験だと思う。そうやって、大人になる過程で、感じていても無視したり、うまく表現できないからと封印したり、多忙さ故に「感じる」ことをスルーしてきた結果、その感覚を忘れてしまったのだ。

自分の内面の変化を感じたままに表現し、行動する娘が、目の前にいるおかげで、私はその感覚を取り戻すヒントをたくさんもらっている。娘の表現方法はストレートなだけに、とてもわかりやすい。

そして、こうして記事を書くことで、時差はあるが、自分の感じたこと、内面の動きを振り返り、徐々にその時差を縮めていこうとしている。

仕事、育児、家事に追われる感覚で日常生活を送っていると、こうした感覚は流されていく。意識的に、自分に矢印を向けること。たったそれだけのことだが、母親とか、妻とかいう「役割」や、仕事上の「肩書」とは無関係の自分を感じる時間は、この混沌とした不安定な時代に、しっかり地に足をつけて生きていくために、必要な気がしてならない。

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