勇気と挑戦の記録
学校が再開した。娘は、再開当初はかなり頑張り、連続登校した日もあった。行った日は、それなりに楽しいと言って帰ってきたが、気を張って緊張して過ごしているのか、ここへきて再び、行かなくなった。
今回は、そんな娘が、勇気を出して頑張って挑戦したことを書いてみたいと思う。些細なことではあるが、私たち親子にとっては、特別な、印象深い出来事だった。娘自身が決めて動いたことは、きっと娘の自信になっているだろう。
教室に一人で入る
1年生の時、教室に入ることを拒み、一人廊下で過ごしていた娘。廊下で泣いていたこともあった。私と登校していた時も、教室に入る時もあれば、入らない時もあり、1時間教室で過ごせることは稀だった。担任の先生の発する雰囲気から、教室になじめず出てきた時もあるし、お友達の視線が集中するのが嫌で、一番後ろの席にしてもらい、後ろの扉からこっそり出入りしていた。
2年生になって、登校できた日に、どう過ごしているのかなと思っていたら、ある日、思い立ったように教えてくれた。
「いまね、前から二番目の席なの。廊下側じゃなくて、窓に近いほう」
「出席番号順だから、前のほうなの?」
「違うよ。1回席替えして、今の場所になったの」
「窓側って、教室に入る扉から遠いんでしょ?それに、前の席なの?1年生の時は、扉に近い廊下側の一番後ろの席だったのに?ほんと?」
そう言うと娘はニヤニヤして話を続けた。
「そうだよ。あのね、実はね、私、今までは教室に入る時、先生に声をかけてもらってたの。教室の前で『どうしよう、どきどきする』って思っちゃって。でもね、今日は、ひとりで入ったの。不思議なんだけど、『どうしよう』って思わなくて、気がついたら教室の中にいたの」
私は本当に驚いた。娘自身が、感じていることをその場で確認して、次の行動を決めている。足が前に出ない時は、先生の力も借りながら、少しずつ、できることを増やしている。「成長」と言ってしまえばそれまでだが、自分で壁を乗り越えた経験は、娘にとって、貴重なものになったと思う。
先生にあてられる
娘は得意げな顔をして、話し続けた。
「あとね、国語の時間に、先生に当てられちゃったの。『どうしよう、恥ずかしい』って思ったんだけど、私、頑張るって決めたんだって思ったから、答えたんだ」
「え~っ?本当?頑張ったんだね。1年生の時は、教室から出てきちゃったよね。先生に『あてないでください』って頼んだもんね」
「当てられて話すと、代表になったみたいな気持ちがした」
「そっか~。すごいね」
「みんなに見られるのは、嫌なんだけどね」
と、ここまで話を聞いて、私は涙が出てきてしまった。娘はそれを見て笑っていた。
1年生の担任の先生が聞いても、きっと驚くだろう。先生に当てられて、問いかけられた内容がわからないわけじゃないのに、うつむいて黙ってしまい、泣き出してしまった娘。お友達が、一斉に娘のほうを見るので、緊張して固まってしまって、どうしたらいいのかわからなかったのだ。
過度な緊張を避けるため、教室を避け、お友達からの注目を集めないように行動したいと、よく娘は言っていた。それは今でも変わらないが、少し「やってみよう」という気持ちが芽生えたのは、大きな前進だ。
一人下校
少し調子に乗った娘は
「明日は、お迎えこなくていいよ。一人で帰ってみる」
「通学班と一緒に帰ってくるの?」
「ううん、通学班じゃなくて、全部の通学班の一番後ろから、ママと一緒に帰ってたみたいに、一人でついて行って帰ってくる」
「本当に?」
「大丈夫」
翌朝も、その決意は変わらなかったので、私は娘に任せることにした。
娘と一緒に下校していたので、通学班に入っていくことができなくても、道中完全に一人になることはないとわかっていたから、特に心配はなかった。
下校時刻が過ぎ、そろそろ帰ってくるかなと思って待っていたところに、玄関で「ピンポーン」と呼び出しが鳴った。娘かなと思って出ると
「郵便です」
と、低い女性の声。娘の声ではなかったので、私はハンコを持って、玄関を出た。すると、いたずらっぽく笑って、娘が帰ってきていた。
「やった~!だまされた!」
やられた・・・声を変えられるとは・・・。娘は、してやったり!と満足気だった。
だが、こうした日々は、続かなかった。1年生の時と同じように、娘は再び、パタっと、学校に行かなくなった。
これも、いい思い出だ。またいつか、こんな風にいたずらして、笑わせてくれる日が来るだろう。
私が受け取ったメッセージ
小学校1年生になれば、親と離れて一人で登校し、教室に入って授業を受けられる。そういう年齢だ。というのは一般論。大半の子どもはそうかもしれない。
だが、それが平気な子もいるし、そうでない子もいる。娘は後者。それは、優劣とは関係ないし、平気でない=問題である という図式は成立しない。家庭環境、心身の発達、気質は誰一人同じではないのだから当然だ。
私は、娘がほとんどの子どもたちと同じ行動ができないことを心配したし、不安や焦りも感じた。今も、その不安が完全に払しょくされたわけではない。
けれど、娘が「みんなと違う」ことを、否定的に捉えず、この子の個性、特性なんだと受け容れ続けるのが、きっと私の使命なのだろう。なぜなら、みんなと同じように行動する方向に軌道修正しようとすると、無意識下にひずみが生じてしまうのを、何回も、何回も、何回も見たからだ。
娘は「みんなと同じでなければならない」と擦りこまれてきた私の常識を、そろそろ捨てていい時期だと、不登校だけでなくいろいろな出来事を通して、必死で私にメッセージを送ってくれている。体にしみついた常識に、頑固にしがみつくのを、私も勇気を出して、やめなければならない。
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