他人の目は二の次、宝塚立ち入り調査…199日目
22日、宝塚歌劇団に兵庫・西宮労働基準監督署が立ち入り調査したことが明らかに。9月に同歌劇団・宙組所属の劇団員女性(当時25)が自死したとみられる件で、労働基準法に基づくもの。歌劇団は過密なスケジュールなどで、劇団員に心理的負荷がかかっていた可能性は否定できないとしていた(パワハラなどの存在は認めていない)。
一枚の皮の中で生きて、死んでいく
通販で注文した服が届いた。窓越しの日光の中で試着する。うーん、品は悪くないが、まとう身体の衰えが気になる。加齢。
ダイエットは一応「成功」しているが(後述する「同窓会」での飲食もあり、最近は1~2キロの範囲の増減を繰り返し中、維持期か)、残念ながら、それと引き換えの皮膚のたるみは隠せない。自分はダイエットするとかなり早期に顔がやせるのだが、周囲の人間は「顔が…痩せた」と一瞬無言になるため、「やつれた」と内心思っているのだと想像する。が、美容外科に行ってるわけでもなく、パーツパーツで増減は難しい。
身体は、ひとつ皮(皮膚、もとい一細胞の細胞膜)で覆われている(手術していなければ縫い目はない)。母親の胎内からン十年のここまで、この皮一枚にすっぽり包まれて(その中で臓器や骨や筋肉などが生長し脂肪を貯え衰える)生きてきたとは、生命の神秘というか不思議なものだ。
太ったからダイエット、などすれば、その皮は勿論たるむ。生きていればまたン十年後にはおそらく脂肪は遠い昔、しわしわだらけの身体で「ダイエットなどしていたこともあったか」と懐かしむことになろう。
既に「たるみ」が気になるが、しかし、自分の今一番の問題は「膝」。皮膚がたるもうと、体重を徐々に減らして、歩ける足と膝を作る。それが最重要課題だ。
つまり、他人からどう見られるかは二の次だ。自分が歩き、自分の目で見て、耳で聞き、口で話し、頭で考える。それが一番大事だ。
同窓会続きで感じる「変わらないね」「変わった」の意味
その「他人から見られる」で最近感じることが多々あるのは、「同窓会」が続くためか。
学校時代の同級生たちと会う。よく言い合うのが
「変わらないね」
これは、社交辞令として無難な誉め言葉なのか。あるいは、口にした本人が、「この人はこういう人」というレッテルを貼って一安心するためか。
そんなことをうじうじ考えても仕方ないのだが。同窓生たちは、一瞬の数時間再会し、その多くは幸か不幸か利害関係もなく、去っていく。
かと思うと、或る同窓生と一対一で会っていたら
「なんか昔と変わったね。……肩の力が抜けたというか」
と言われた。これはこれで「誉め言葉」なのだろうが(「悪く変わった」なら、よほどの「親友」でない限り口に出さない)、その後、またうじうじ考える。
「肩の力が抜けた」⇒「周囲に対して人当たりが柔らかくなった」⇒GOOD!
というのが一般的な見解だろう。いわゆる「(他人、周囲から見て)人間が丸くなった」という奴だ。
ふむ。加齢の今、誉め言葉として喜ぶべきか(表面上は一応笑った)。しかし、今度は天邪鬼の心が頭をもたげる。
周囲にとっての「安全、安心な人間」で終わりはしない
他人からの評価が「人間丸くなった」で、この先の残り人生を生きていくのか? それでいいのか、お前?
今も昔も、社会に迷惑をかける類の人間ではないと自覚しているし、それはこれからもそうだろう。が、「自分の中に毒を持て!」と叫ぶ声が聞こえるぞ。おお、岡本太郎だ。
丸く丸くなって、周囲はやれやれと安心する。「安全、安心な人間」の一丁上がり(認知症になったら知らないが)。それは……自分はいやだ。
毒を持とう、棘を持とう。自分の中で何かを創っていくために、自分は、他人から見た「安心、安全な人間」などにならないのだ、と言い聞かせる(繰り返すが、社会に迷惑をかける人間になるわけではない)。
それは、皮がたるんで、周囲からどう見られるかは二の次で、自分の目・耳・口・脳・足腰を第一に考えるのと同様だ。
つまりは、自分第一。
という当たり前のことをうじうじ考えるのは、まあ、楽しくもある。
皆さまのご健康を。
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