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「“建築王”ラメセス2世と世界遺産の黎明」世界遺産の語り部Cafe #21

今回は、エジプトの世界遺産🇪🇬【ヌビアの遺跡群:アブ・シンベルからフィラエまで】についてお話していきます。



プトレマイオス朝時代の古代遺跡群


エジプトのナイル川上流に位置するヌビア地方の遺跡群は、古代エジプトの新王国時代(紀元前1570年頃~前1069年)、プトレマイオス朝時代(紀元前340年~前30年)に建てられた建造物群です。

同時代に繁栄を極めた「ヒッタイト」、「バビロニア」に比類する大国であったエジプトは、古代世界における三大強国と呼ばれていました。

ヌビア地方は金などの鉱物の産地であり、アフリカ奥地との交易における中継地点として栄えました。

紀元前1260年頃、新王国時代第19王朝のファラオである「ラメセス2世」により、大規模な建築事業がヌビア地方の都市「アスワン」にて行われました。

ラメセス2世(O. LOUIS MAZZATENTA/NATIONAL GEOGRAPHIC IMAGE COLLECTION)

“建築王”の異名で名高い、ラメセス2世が建設を命じた「アブ・シンベル神殿」は、ナイル川にせり出した高い岩山を掘削して建造された洞窟神殿です。

アブ・シンベル神殿

アブ・シンベル神殿に加え、ナイル川に浮かぶフィラエ島に建てられた、「女神イシス」を祀るイシス神殿などが世界遺産の範囲に登録されています。

イシス神殿


ファラオの“自己顕示欲”が生んだ世界遺産


非常に自己顕示欲が高かったと言われるラメセス2世は、神殿の入り口に自身の座像を4体並ばせ、足元には母、王妃、息子や娘の小さな立像が彫られており、その外観は圧倒的スケールを誇ります。

神殿内部には、大国「ヒッタイト」と激突した「カデシュの戦い」におけるラメセス2世の姿が描かれています。

最深部には「太陽神ラー・ホルアクティ」、「アメン・ラー」、「プタハ」の3神の像と共に、自身を神格化するラメセスの像が並んでいます。

アブ・シンベル神殿内部の回廊

これらの像は、ラメセスの誕生日と即位した日の年2回、日の出の太陽光により照らし出されるよう設計されています。

また、アブ・シンベル神殿の北にも王妃「ネフェルタリ」のために神殿を築き、入口には同じようにネフェルタリを挟み、4体のラメセス像が左右2体ずつ対になる形で掘り出されています。

王妃ネフェルタリ(DEA/SCALA, FLORENCE)


“エジプトはナイルの賜物”だが…


“エジプトはナイルの賜物”

とは、古代ギリシャの歴史家「ヘロドトス」の言葉として知られています。

ヘロドトス(Image credit: Eye Ubiquitous / Getty)

その言葉の原意は“砂漠地帯にあったエジプトが栄えたのはナイル川があったおかげである”と曲解されがちですが、正しくはナイル川の氾濫によって堆積した土砂による、肥沃なデルタ地帯について述べたものとされています。

しかしながら、ナイル川の氾濫による被害は20世紀の時点においても、深刻さを極めていました。

1950年代のエジプト大統領「ガマール・アブドゥル=ナセル」は、ナイル川の氾濫を防ぐために「アスワン・ハイ・ダム」の建設計画を立てます。

ガマール・アブドゥル=ナセル

ところがこのダムの建設計画は、ラメセス2世による2つの神殿、およびフィラエ島のイシス神殿などを、丸ごと水没させてしまう危険性がありました。


“ヌビア遺跡群の救済キャンペーン”


ダムの建設計画を耳にしたユネスコは、世界各国に向けて“ヌビア遺跡群の救済キャンペーン”を開始します。

結果として世界50ヵ国の協力を得て、救済事業がスタートして、ヌビア遺跡群を安全な場所に移転する工事が開始されることになります。

工事は最先端技術による、驚くべき方法を用いて行われました。

アブ・シンベル神殿は、1000個以上のパーツに分けられ、元あった場所から64メートル高い位置に移築されることになります。

アブ・シンベル神殿移築工事の様子

一方、フィラエ島のイシス神殿は、地勢がよく似た「アギルキア島」に移築されます。

そのため、現在ではこのアギルキア島がフィラエ島と呼ばれています。

この救済事業により、遺跡は守られ、ナイル川の氾濫を抑えるためのアスワン・ハイ・ダムも1970年に完成しました。

アスワン・ハイ・ダム


期せずして訪れた“パラダイムシフト”


結果としてこのキャンペーンは、世界的価値のある遺跡、建造物、自然などを“人類全体の遺産”として保存していく機運を高め、社会の価値観が劇的に変化する起点となりました。

1972年、ユネスコ総会で「世界遺産条約」が採択され、世界遺産条約には日本をはじめとする186ヵ国が締約しました。
                     
1976年11月には第1回となる「世界遺産条約締約国会議」が開かれ、そこで最初の「世界遺産委員会」の委員国が選出されます。

そして、第2回の世界遺産委員会では“世界遺産第1号”となる「最初の12件」が、世界遺産として登録される運びとなります。

このような経緯で世界遺産は黎明期を迎えますが、その真意は実のところ、観光資源としての役割以上に“地球の品位を守る”ことにあるんですよね。(京都大学名誉教授、桑原武夫氏いわく)

桑原武夫氏

裏を返せば、環境破壊や戦争など様々な要因によって地球の品位が失われないよう、我々には世界遺産を保全し、未来へと引き継ぐ義務が求められているということかもしれません。

【ヌビアの遺跡群:アブ・シンベルからフィラエまで:1979年登録:文化遺産《登録基準(1)(3)(6)》】



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