ゴッキンゲルゲル・ゴキ博士の知らんけど日記 その11:日本人の宗教性Ⅰ ~ 将棋と日本的精神性~

  2020年8月20日、藤井聡太二冠が誕生した。両者の佇まいが見事。勝負がついた直後、藤井聡太棋聖は笑顔など見せない。木村一基王位も露骨に悔しさをにじませるわけでもない。29歳も年下の者に4連敗を喫したにもかかわらず、態度を崩さない。芯を崩さない。本当に大したものだ。頭が下がる。異次元の強さの二人だが、この「在り様(よう)」も異次元。

 拙著『人はなぜ傷つくのか』でも書いたが、日本には「両雄並び立つ思想」とでも言うべきものがある。「両雄並び立たず」(史記)の方はよく聞くであろう。ところが、例えば日本の大相撲においては、東西に分かれるとは言え二人の横綱チャンピオンが並び立っている。チャンピオンと言えば、通常一人だけ。two Yokozuna champions を成り立たせるコスモロジーを日本は持っている。それを私は「両雄並び立つ思想」と呼んでいる。相撲や剣道、将棋などにおいては、見事にそれが表現されているが、その他の分野でもそうであってほしい。

 対局終了後の様子も、もし音声が一切なかったらどちらが勝ったか負けたかさえわからないであろう。対局後のインタビュー、感想戦、それに続く記者会見でも、藤井聡太二冠は疲れさえ見せない。つまり、態度を崩さない。己の軸を保ち続ける。疲労困憊だったであろうに。言葉がない。見事としか言いようがない。これは敗者の側も同じ。対局終了直後のインタビューでは、敗者にあまりにも酷な質問も飛んだ。が、勝者同様、態度を崩さない。軸を保ち続ける。ここまで徹底して「勝って奢らず、負けて腐らず」を体現しているものがあろうか。「勝って奢らず」どころかより謙虚に、「負けて腐らず」どころか爽やかでさえある。勝って勝者、負けて敗者、ではない。最初から最後まで「両雄」だ。結果、タイトルは移動するが、根底に流れているものは「両雄並び立つ思想」。そうでなければ、あのような空気感は生まれようがない。そのような文化を持つ日本を心より誇りに思う。

 少し間をおいての記者会見の雰囲気もまた格別なものであった。藤井二冠に対する質問は、記者の皆さんわきまえておられる。失礼な言い方をする方がいない。これは藤井二冠の放つ濁りのない波動が会場中に広がり、あのような場となったのであろう。こういう「文化」を持っていることを忘れないでほしい。われわれ凡人においては、普段「両雄並び立つ思想」を体現することはできていないが深層においては存在する。藤井二冠や木村元王位に習い、少しでもそれぞれの人の中で「両雄並び立つ思想」が賦活されることを願う。
 以下、「両雄並び立つ思想」がなぜ、日本において成立しうるのかを述べてみたい。

ここから先は

1,113字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?