ゴッキンゲルゲル・ゴキ博士の知らんけど日記 その50:「ブラック・ジャック」という奇跡29 ~ときには真珠のように~

 第29話「ときには真珠のように」は、1974年7月1日、週刊少年チャンピオン誌に掲載された。あらすじはこうだ。

 ブラック・ジャックのもとへ、鞘(さや)のようなものに包まれたメスが送られてくる。送り主はJ.H。本間丈太郎だと気づいたブラック・ジャックは言う。「わたしの先生だ・・・命の恩人だ!」「本間先生はな・・・・・・」「わたしを すくってくれたばかりでなく わたしに 医者になるキッカケを つくってくださったかただ!」「りっぱな先生だよ あれこそ世界一の外科医なんだ」「わたしが  世の中で・・・」「たったひとり 尊敬するかただ!」。
 本間丈太郎のもとを訪ねるブラック・ジャック。本間は老衰で床についている。二人の会話。「話をきいて もらおうかな・・・わ・・・わしの・・・ザンゲだ・・・・・・」「何年前になるかね・・・きみはまだ子どもだった・・・・・・」「わしの所へはこびこまれたきみは 頭蓋骨も顔も 手も足も 内臓も めちゃくちゃだった だれも もう 死ぬと思うとった・・・・・・」「わしは できるだけのことをやってみることにした」「そして きみは 奇跡的に 命をとりとめたのだ」「―ええ そうです そして わたしは 医者とはなんてすばらしい人間だと思いました」「そして先生のような医者に なろうと決心したんです」。
 ザンゲとは、本間がブラック・ジャックの手術をしたとき、メスを肝臓の下に置き忘れてしまったことだった。「新聞ダネにでもされたら どうなる?」「手術をやりなおして とり出すか?」「いや・・・そんな恥さらしな!!」「そんなことを いったがさいご わしは医者として 笑いもんだ」「・・・しかしあのままでは あの子は 一生 きけんだぞ」「―なんという おろか者だ わしは・・・!! きみのからだにメスをいれたまま きみを退院させてしまったんだ!!」。「わしが・・・ついに もう一度きみの腹をひらいて メスをとり出すチャンスをつかんだのは・・・」「なんと七年も たってからだったんだ!」。そして再手術。「なんと・・・おどろくべきことに・・・メスはていねいにカルシウムの鞘でつつまれて 保管されていたのだ」。
 このザンゲの後、本間は力尽きる。ブラック・ジャックが緊急手術を行うが、死亡。しゃがみ込み、悲嘆に暮れるブラック・ジャック。

 ブラック・ジャックが子どものとき、本間丈太郎の大手術を受けて、かろうじて命をつなぎ止めたことが第29話にして初めて明らかになる。だが、このザンゲ。本間は、プライドが傷つけられることを恐れ、ブラック・ジャックの命を軽んじたのだ。すぐに再手術を行っていれば、多少の批判は受けても、それほど大事(おおごと)になっていたとは思われない。人間だれでもミスをおかすことなど、わかりきったことだ。魔がさした。7年も放置しておいたのだ。
 ブラック・ジャックがこの世で唯一尊敬する人間に、実は裏切られていたことを知ったにも関わらず、それに対するブラック・ジャックのうろたえや怒りや悲しみは一切表現されていない。本間の手術の後、力なくしゃがみ込むブラック・ジャックは、本間を助けられなかった後悔のみに打ちひしがれているようにみえる。本間の裏切りへの憎しみは一切描き込まれていない。

 前編「指」で、これまた7年後、ブラック・ジャックは親友・間久部緑郎に裏切られ引導を渡す。死刑台に送り込む。指紋を変える手術をしてやった間久部に殺されかけたのだ。友情は木っ端みじん。間久部からの手紙をブラック・ジャックは破り捨てる。
 この度もきっかけは郵便物。間久部からは手紙、本間からは小包。似たような話の幕開け。「7年」も同じ。間久部は手術を受けた後、ブラック・ジャックを殺そうとした。本間は手術後、ブラック・ジャックの命を軽んじた。この構図も似ている。間久部の手紙は破り捨てた。本間から送られてきたメスについては語られていない。いずれにしろ、手塚は何かをこの2話に重ねて表現しようとしている。

 唯一尊敬する人間のザンゲをどう受け止めたか。ブラック・ジャックは数々の修羅場をくぐり抜けてきている。多少のことでは動じない。この度のザンゲにさえ、一切の動揺が表現されていない。本間に殺意はなかった。魔がさしただけだ、と自らに言い聞かせているのか。それでも、師と仰ぐ本間丈太郎へのブラック・ジャックの想いに変化が生じないわけがない。命よりプライド。「命をだれよりも だいじにする」ブラック・ジャックが許すわけがない。彼は師を失った。本間先生、あなたもですか・・・。ブラック・ジャックの苦悩が私には届く。
 前編で親友を失ったのに続き、この度は師を失う。手塚は、ブラック・ジャックから大切なものを次々と奪っていく。どうしてか。それは、ブラック・ジャックがDisfigured Heroとして完成されていくためである。    Disfigured Heroは、友情や師への想いを存在の土台とはしない。傷が存在を高める。魅力づける。そして傷が輝く。あたかも傷のみを存在の土台としているかのようだ。

 『ブラック・ジャック』は、単なる名作マンガの域を大きく超えている。Disfigured Heroの概念が世に出たのは2000年であり、その概念を知らぬ手塚は、しかし、この概念がうみ出されることを予期していたかのごとくブラック・ジャックを描く。
 傷ついた人は大勢いる。いや、傷ついていない人などいないであろう。そこからさらに友情や師を奪い取る。恨んだり、怒ったり、自暴自棄になっても仕方がない。しかし、Disfigured Heroと呼ばれるに足る域にまで達すると、失う度により存在が輝きを増す。このようなレベルがあることを、ブラック・ジャックは教える。

 ラストシーン。本間の霊が語りかける。「人間が 生きものの生き死にを自由にしようなんて おこがましいとは思わんかね・・・・・・」。この本間の言葉は、名台詞としてよく取り上げられるが、もしそれが本間の言葉とするならば、私には底の浅い説教のようにしか思えない。
 その傍らで、じっと身を守りディフェンスするかのごときポーズで踏みとどまるブラック・ジャックには、この言葉がどれだけ届いているだろう。それが本当に本間の名台詞であれば、もっと、涙ながらに本間を見つめ、言葉に聞き入るブラック・ジャックが描かれていてもよかった。しかし、このポーズはすべてを拒絶している。己の手術力が及ばなかったことのみを抱え、苦しんでいるかのようにみえる。

 ブラック・ジャックは確かに本間により一命を取り留めた。だが、その後7年の間、メスから身を守り続けたのはブラック・ジャック自身である。本間はその7年の間、苦しんではいた。悪夢にうなされる日々ではあった。だが、救おうとはしなかった。その本間がブラック・ジャックに霊となって言う最後の台詞は、確かにその通りではあるが、その説教を垂れる資格はもう本間にはない。どの口が言うか。逆であろう。ブラック・ジャックの7年にわたる人体の神秘が本間に教えている。「それを君に教えられた」とかの言葉がせめて続くべきである。

 最期のザンゲをどうみるか。そのザンゲがなければ、ブラック・ジャックの師匠像は保たれたであろう。ブラック・ジャックのことを思えば、墓場まで持っていくべき秘密であった。言った方はどうか。肩の荷がおりた。楽になった。その「荷」を背負うのはブラック・ジャックである。こちらの方は荷物が増えた。このザンゲさえ、受け入れざるを得ないブラック・ジャック。だが、結果的にブラック・ジャックをさらにブラック・ジャックたらしめる行為ではあった。
 手塚はあたかも最期の教えのごとくその台詞を本間に言わせているが、これはブラック・ジャック自らが発した言葉であると私は考える。長い間、師匠像としてあり続けた本間丈太郎。そのイメージを通して、ブラック・ジャックが自分自身に言い聞かせているとみるほうが納得できはしまいか。
 この一話において、ブラック・ジャックは本間から完全に脱皮した。


© 2020 秋田 巌


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