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議論をするには、学ばなければならない。

最近思うのは、やはり「考える力」があるかないかが大事だということ。
そのためには、とにかく学ばなければならないということ。

学問のすすめ

福沢諭吉の「学問のすすめ」には、

「賢人の愚人との別は、学ぶと学ばざるとによって出来るものなり」

とあります。

簡潔に言えば、

賢い人と愚かな人の違いは、
学問をしたかしないかによってできるものである。

つまり、学ぶか学ばないかの差であると。

例えば、今の世の中おかしいことだらけですが、
そのおかしなことをおかしいと気づけるか、
そのことを指摘できるかどうかは、「考える力」があるかないかです。

「それ、おかしくないですか?」

と思えるか、言えるか。
物事を考え、判断するための知識、知性、情報を持っているかどうか。

物事は多面的に捉える

あらゆることに言えますが、
物事を理解するには、平面的ではなく、立体的に捉える必要があります。

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物事を立体物として捉え、回転させながら全体をみるんです。
全体を多角的に、多面的に見た上で、問題を明確にするんです。
「木を見ず森を見る」と言いたいことは一緒です。

答えは1つじゃない

また、判断は、AかBか。◯か✖️か。
といった、2択で決めたがる人が多いけれども、
そもそも、その選択肢の2つが適切なのか、から考える。

選択肢は2択じゃなくて、
Aもあるし、Bもあるし、Cもあるし、Dもある。
◯もあるし、✖️もあるし、△もあるし、◻︎もある可能性がある。

世の中はそんな単純にはできていないんだから。

この選択肢の出し方も、学んでいる人と学んでない人で差が出るわけです。

「いやいや、そもそもの選択肢がおかしいやん」って
疑問に思えるか、言えるかどうか。

視野が狭いか広いか。
色んな視点を持っているかいないか。

それらを整理して、論理的に考え、議論する必要があるかなと。

視点は、人それぞれ

最近で言えば、色んな人が、
新型コロナに関しての、新型コロナ後の世界について
語っている話を聴きますし、目にします。

例えば、圧倒的な読書量を誇る、
本田健と神田昌典さんの視点を比較してみても、
共通する部分と違う部分があります。

どちらが正しいとも言えなくて、どちらもありえるなぁと思いました。

その違いはなんだろうと考えたら、
その人のバックグラウンドと、
どういう思考の癖があるかだなと。

知識、情報をどう判断するかは、その人の人間性によるなと。

その他の経営者の方の視点を見るとやはりそれぞれ違うし、
スピリチュアル系が好きな人たちの見方も違うし、
陰謀論的な見方をする人でも違うし、
感染症の専門医の方の見方も違うし、
経済の専門家の見方も違うし、
政治家の見方も違う。
全く普段から学んでいない人の視点も違う。

それぞれが、それぞれの立場で
物事をみて判断してるなぁと思うわけです。
多面的にみていると。

さらに、その人の立場に加えて、
楽観的か悲観的という思考の差だったり、
どんなことを学び経験してきたかという生い立ちの差であったり、
感情の満たされ具合だったり、
あらゆることが関連しているなと。

議論をするには、学ばなければならない。

色んな議論が生まれた時に、
適切に、建設的に話せるかどうかは、
学んでいるか、学んでいないかの差が出るのではないでしょうか。

そもそも、相手が何も知らない状態だとしたら、
議論をするステージにも立てていないわけで。

誰かと議論、意見交換をするには、学ばなければなりません。
議論ができないなら、相手に言われるがまま。
そこに主体性は生まれません。

人生を主体的に生きるには、学ばなければなりません。

私は、自分の人生を、自分の足で生きる。
と決めたから、学び続けることを選びました。
無知すぎる自分を反省したからです。

自分の人生だからこそ、
自分で道を創り、
自分の足で歩いて行きたい。

生かされているんだから、しっかりと生きたい。

積極的に生きるか、消極的に生きるか。
主体的に生きるか、受動的に生きるか。
自分の人生を生きるか、他人の人生を生きるか。

今日も、明日も、明後日も、学び続けます。

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