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歌のゆくえ

 グルグルという名の町の薄暗がりの中、女がひとり、佇んでいた。足元には、男が横たわっている。微動だにしないその身体は、すでに温度を失い始めていた。
 女と男は、先ほどまで激しく口論していたのだが、それはいつもの習わしであり、原因も些細なことだった。しかし、ある瞬間、ふと女の脳裏に殺意がよぎったのだ。その後のことはよく覚えていない。気がついた時には、男が目の前に倒れていた。
「私はなぜ、この人を殺めてしまったのか」
 考えても、考えても、わからない。ただ呆然とするばかりである。
 女は、知らなかった。脳裏に殺意がよぎった時、ひとつの歌が、自分の中を通り抜けていったことを。


             *

 グルグルの町には、ひとりの歌うたいがいる。
 歌うたいが絶望をうたうと、聴く者の眼前に、底知れぬ深淵がありありと浮かび上がる。歓喜をうたうと、身の内が悦びで満たされていく。歌うたいの歌には、抗いがたい不思議な魅力が備わっており、住民たちはこぞってその歌を聴きたがった。
 歌うたいは決まって、夜の入口あたり、闇がしだいに濃くなり始める頃に、グルグルの町の中央にある広場に現れる。皆それをよく心得ているので、いつもその時刻になると、多くの人々が集まってきて、歌うたいを取り囲むようにして広場を埋め尽くすのである。
 人いきれの中、歌うたいは目を閉じて、身じろぎもしない。ただひたすら、歌が立ち現れるのを、待ち続けている。人々は、しだいに闇が濃くなっていく広場で、ひとかたまりの黒々とした影となり、耳をそばだてている。そして、その時は、唐突にやってくるのだった。

 わたしは、うたう。高らかに、うたう。

 その言葉に続いて、歌うたいの身体の中から、歌が溢れ出す。それは、闇を揺さぶりながら、人々の中へと流れ込んでくる。喜怒、哀楽、愛憎。さまざまな想念が心の奥底から沸き上がり、渦巻き、そして何処かへと流れ去っていく。
 歌が終わっても、誰一人として言葉を発するものはいない。人々は、皆一様に惚けたような顔をして、押し黙っている。やがて、ひとかたまりの黒々とした影は散り散りに分かれ始め、人々はそれぞれの家路をたどるのである。
 聴衆が立ち去った後も、歌うたいはしばらく、闇の中に佇んでいる。自分が何をうたっていたのかを思い出そうとしているのだが、その願いはいつもかなわなかった。歌うたいは、うたってしまった後、詞も、旋律も、何ひとつ覚えていないのだった。
 そして歌うたいは、小さくつぶやく。
 
 今日もまた、歌は消え去ってしまった。
 わたしから、逃げてしまった。



 歌うたいは、知らなかった。自分の歌が、消え去ってなどいないことを。それは、グルグルの町を縦横無尽に飛び交い、いつまでも彷徨い続けるということを。
 無音の響きと成り果てた歌は、もう闇を揺さぶることはない。誰の耳にも、聞こえることはない。しかし、それが身体の中を通り抜けるとき、さまざまな想念が心の奥底から沸き上がり、人々を突き動かすのである。

 ある時は、絶望。ある時は、歓喜。そして、またある時は、殺意。

 その力に抗うことは、誰にもできない。
 


[了]



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