政治家から警備員まで!アメリカのプロスポーツに見るセカンドキャリア 15の先行事例【TranSport】
英語の勉強とインプットを目的に、海外記事を翻訳する【TranSport】シリーズ。今回は「海外のアスリートのセカンドキャリアにはどんな事例があるんだろう?」という問いが浮かんだので、先行事例を集めてみようと海外記事を漁ってみました。
今回はその中から、アメリカ人を中心に15名のアスリートの多様なセカンドキャリアが紹介されていたStackerの記事の内容をお届けします。
今年で日本にプロ野球が誕生してから87年、Jリーグが発足してから30年。東京五輪の開催が決定した2013年以降、マイナースポーツ・アマチュアスポーツにおいても『競技で稼ぐ』プロスポーツ選手は急速に増えました。
プロスポーツ選手の数と比例して現役引退する人の数も増えていくので、日本でもセカンドキャリアの在り方はより多様化していくことでしょう。
※Chat GPTに聞いた「プロスポーツ選手」の定義はこちらです。
それでは『Second careers of 15 athletes』の記事の内容をどうぞ!
15人15色のセカンドキャリア
2019年の調査によると、アメリカの子供の23%は将来プロスポーツ選手になりたいと考えています。アメリカには100年以上も前からプロリーグがあるため、好きなスポーツをして大金を稼ぐ夢を見る子供の数は減ることはありません。しかし、NCAAはどのスポーツでもプロ選手になることができる確率は非常に低いことを発表しています。
プロスポーツ選手になれたとしても、怪我やメンタルブロック、年齢などが障壁となりプロスポーツ界で成功し続けることは容易ではありません。しかし、プロスポーツ選手が志半ばに現役を引退することになったとしても、人生に絶望する必要はありません。15人の元プロスポーツ選手が成功を収めたセカンドキャリアの事例はそのことを教えてくれます。
警備員からワイナリー経営、政治家まで、あなたの好きなアスリートたちがどのようなセカンドキャリアを歩んでいるかを紹介します。彼らの成功を見て、あなた自身もキャリアチェンジを考えるきっかけになるかもしれません。
1. 政治家
マニー・パッキャオは、16歳からプロボクサーとして活躍し、リング上での戦績や多数の世界チャンピオンベルトを獲得して世界的な注目を浴びています。2021年8月にはヨルデニス・ウガス戦で敗れましたが、その後はセミリタイア状態でした。
しかし、2021年10月にはスポーツから完全引退を発表しました。2016年からはフィリピンの上院議員として活躍しており、母国での大統領選出馬を表明しています。
2. 営業マン
もう一人の元ボクサー、ジョージ・フォアマンは、1960年代後半から1990年代にかけてアマチュアとプロで活躍しました。1968年のオリンピックでの金メダル獲得、1974年の「ランブル・イン・ザ・ジャングル」でモハメド・アリに敗れたこと、そして1995年には45歳で世界最高齢のヘビー級チャンピオンとなったことで知られています。
1997年に76勝5敗の戦績で引退した後は、一時的にボクシングから離れて聖職者になりました。その後、営業マンとして家庭用グリル機を1億個売り上げ、新しい役割を担いました。また、自動車修理チェーンのプロモーターとして活躍したこと知られています。
3. 米国司法省
ケリー・ストラッグは、アメリカ史上最も有名な体操選手の一人です。1996年のオリンピックで、負傷した足首から跳躍して金メダルを獲得したことで知られています。彼女はキャリアを通じて2つのオリンピックメダルと3つの世界選手権メダルを獲得しました。
引退後、ストラッグはスタンフォード大学で社会学の修士号を取得しました。2020年現在、2人の子どもの母親である彼女は、米国司法省の少年司法・非行防止局でプログラムマネージャーとして働いています。
4. プロカメラマン
ランディ・ジョンソンは、「ビッグユニット」というニックネームで知られる、MLB史上最高の左腕投手の一人です。彼は40歳で史上最年長で完全試合を投げた選手となり、この偉業により2015年に野球殿堂入りを果たしました。
2009年に現役を引退したジョンソンは、プロカメラマンとして全く異なるキャリアを歩み始めました。USCでフォトジャーナリズムを学んだ経験から、アフリカのサファリからロックコンサート、軍事作戦まで、あらゆるジャンルの写真を撮影してきました。現在は主に写真撮影が仕事ですが、野球から完全に離れたわけではありません。彼はダイヤモンドバックスの社長特別補佐として、フィールドの内外で元チームをサポートしています。
5. ワイナリー経営
ドリュー・ブレッドソーはニューイングランド・ペイトリオッツの顔であり、スーパーボウル初制覇の立役者でした。彼は殿堂入りも果たし、ペイトリオッツとワシントンスポーツの両方に名を刻んでいます。
引退後、彼は有名なワインメーカーと提携し、自身のワインブランドを立ち上げました。現在、彼はブレッドソー・マクダニエルズ・ワイナリー、ダブルバック・ワイナリー、ブレッドソー・ファミリー・ワイナリーの3つのブドウ園のオーナーとして、地元ワシントン州でサステイナブルで親しみやすいワインづくりに取り組んでいます。
6. アパレル経営&アナリスト
史上最も成功した女性ドライバーであるダニカ・パトリックは、インディカー・シリーズのレースで優勝したことのある唯一の女性です。また、2015年には、レジェンドのジャネット・ガスリーを抑えて、歴代で最も多くトップ10フィニッシュを達成した女性としても知られています。
2018年に最後のレースをドライブした後、彼女はファッションデザインを含むいくつかの他のベンチャーに取り組んでいます。彼女のアパレルライン「Warrior」はアスレジャーウェアを中心に展開され、2020年にHome Shopping Networkで販売されました。2021年、パトリックはスーパースター・レーシング・エクスペリエンスにアナリストとして参加し、2人しかいない女性アナリストの1人となりました。
7. 証券・金融マン
ウェイン・クレベットは、まるで映画のようなストーリーを持っています。ホフストラ大学を卒業後、ドラフト外でフリーエージェントとなり、1995年にニューヨーク・ジェッツと契約しました。彼は非常に勤勉で決断力があると評価され、常に負け続けるチームのリーダーであり、明るい存在でした。2005年に脳震盪でキャリアを終えるまでプレイしました。
引退後、金融関係の仕事をしている隣人を紹介されたクレベットは、自分の中にある天才的な才能を見つけました。試験に合格した後、ウォール街で働き始め、Moldaver Lee & Chrebet GroupやPrince Marketing Groupなどの会社で数十億ドルを運用しました。
8. 市長
サンズのポイントガードとして活躍したケビン・ジョンソンは、12年間のNBA生活で3度のオールスターチームに出場し、2度の引退を経験しました。そして2008年、故郷であるカリフォルニア州サクラメントで初めての黒人市長に就任しました。
彼の政治家としてのキャリアは、スポーツ選手としてのキャリアほど称賛されるものではありませんでしたが、ジョンソンは2016年まで市長の職にありました。
9. 医者
頭脳と運動神経は合わないという考え方は昔からありますが、マイロン・ロールはその考えが正しくないことを示す生きた証拠です。テネシー・タイタンズの元セーフティ選手であるロールは、2012年に現役を引退し、2021年現在、ハーバード大学医学部とマサチューセッツ総合病院で3年目の脳神経外科の研修医として働いています。
このプロスポーツ選手は、フロリダ州立大学でローズ奨学生として学び、さらに1年間の留学でオックスフォード大学にも行きました。彼は医学を常に目指しており、パンデミックの最中も最前線で働いて、救急治療室で24時間シフトを組んでCOVID-19の症状を持つ患者を治療しています。彼のLinkedInのプロフィールによると、彼は小児神経外科の専門家で、ボストン小児病院でも働いた経験があるそうです。
10. スポーツコメンテーター
1998年、フィギュアスケーターのタラ・リピンスキーは、冬季オリンピック女子シングルで優勝し、史上最年少で金メダルを獲得しました。90年代を代表する選手である彼女は、女性として初めてトリプルループとトリプルループのコンビネーションを競技会で披露し、その技は彼女の代名詞となりました。
金メダル獲得と同時に競技スケートから引退し、2002年にはスケート界からも引退したリピンスキーは、自然な流れでNBCのスポーツコメンテーターになりました。冬季オリンピックや世界フィギュアスケート選手権などでは、親友である元男子スケート選手のジョニー・ウィアーと一緒に出演し、観客にスポーツの複雑さを説明しながら解説をすることもあります。
11. 警備員
タラ・リピンスキーのセカンドキャリアが自然な流れであったとすれば、エイドリアン・ダントリーのそれはそうではありませんでした。元スモールフォワードの彼は、NBAで15シーズンを過ごし、6回オールスターに出場し、当時の9番目に得点の多い選手として引退しました。その後、デンバー・ナゲッツで8年間アシスタントコーチとして働き、その後、社会から完全に遠ざかり、小学校の横断歩道で子供たちを警備・見守りする仕事を始めました。
Business Insiderによると、元オリンピック選手は1日1時間働き、年収は180万円強だそうです。彼の財務状況を見ると、働く必要はなさそうですが、日々を満たすものがある方が良いし、子供たちと一緒にいるのが楽しいから働いているのだろうと思われています。
12. 裁判官
エド・ニューマンは、1973年から1984年までマイアミ・ドルフィンズのオフェンスラインでプレーし、4年連続でプロボウルに選ばれるなど、NFLで活躍していました。1985年のシーズン開幕前に膝の負傷で欠場したときでも、彼は最高の選手の1人と考えられていました。
1987年にはマイアミ大学ロースクールを卒業し、その後は7年間訴訟弁護士として働いた後、1995年に裁判官に転身しました。現在もマイアミ・デイド郡で裁判官を務めており、ドルフィンズのチームメイトだったランニングバックのトニー・ネイサン(現在は州の廷吏)と一緒に仕事をすることも多いそうです。
13. テレビパーソナリティ
マイケル・ストラハンは、長年ニューヨーク・ジャイアンツのディフェンス・エンドとして活躍してきました。そして、2008年にはスーパーボウル優勝を果たし、その後、引退を表明しました。
ストラハンはフィールドから引退する準備はできていたかもしれませんが、脚光から離れる準備はできていなかったため、テレビパーソナリティとしてのキャリアに転身しています。
現在、ストラハンは、ABCの「グッドモーニングアメリカ」の共同司会者、「1万ドルのピラミッド」の司会者、「Fox NFL Sunday」のアナリストを務めています。
14. 慈善団体の職員
マヤ・ディラドは、2020年のリオオリンピックで女子4×200メートル自由形リレーと200メートル背泳ぎの2つの金メダルを含む、計4つのメダルを獲得してプールを支配しました。彼女は式典終了後すぐに引退し、慈善団体に就職しました。
ディラドは、慈善団体で助成金チームの一員として、アジアやサハラ以南のアフリカで極度の貧困に苦しむ人々を支援するプログラムの発掘と資金提供に取り組んでいます。現在は、スタンフォード大学のMBAプログラムにも在籍し、卒業後は気候科学の分野での役割を見つけたいと考えているようです。
15. 不動産の営業マン
マーク・ウォーラーは、元MLB投手であり、1995年のスプリングトレーニングで時速103マイルに達した投球を放ち、プロ野球史上3番目に速い投球を記録しました。しかし、1998年にイップスにかかり、それ以来投球のコントロールを完全に取り戻すことはできませんでした。
2004年に野球を引退した後、ウォーラーはジョージア州で不動産業者として第2のキャリアをスタートさせました。現在は、アトランタにある「TeamWohlers」という会社で、イニングの代わりに取引を成立させています。
アメリカのプロスポーツに見るセカンドキャリアの15の先行事例、いかがでしたでしょうか。
決して体系的に網羅された内容ではありませんが、紹介されている15人の選手のうち5人が現役引退後に大学院やMBAに通って学び直しをしていることが個人的には印象に残りました。現役引退後、すぐに仕事を見つけるのではなく、学び直しの時間を作るパターンは日本人アスリートの中でも増えていくのではないかと思います。
「プロ選手として活躍している現役中から、引退後も見据えて勉強や準備をしておくべき」と言う意見は至極真っ当なのですが、当事者であるアスリートは実力主義・成果主義の厳しいスポーツの世界で生き残りをかけて勝負をしているので、そのように器用な時間の使い方ができる選手はそう多くないと思います。
だとすると、現役中にはどのような取り組みが必要なのか。引退後の選手に対しては、どんな仕組みやサポートが必要なのか。 多くの会社や諸先輩方がこの領域にアプローチされていて、機会や仕組みは整ってきていると思う。その上で、僕自身も事業を通じて、別角度の解を見出したいと思っています。
長文でしたが、最後までお読みいただきありがとうございました!
fin.
五勝出拳一(ごかつで けんいち)
SEIKADAI inc.代表取締役|広義のスポーツ領域で、クリエイティブとプロモーションやってます|『アスリートと社会を紡ぐ』@npo_izm代表理事|東京学芸大学蹴球部 学連 →電通テック/ライブ→スタートアップ→独立|著書『アスリートのためのソーシャルメディア活用術』/マイナビ出版
いつも読んでいただきありがとうござます:)