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暮れなずまぬか

 先程、試行錯誤して書いていた川端康成氏の「山の音」のレビューをうっかり消してしまった。一昨日から3時間程考えながら書いていたから青息吐息どころではない。もう一度書こうかいなか迷っている。レビューの内容は覚えているのだが、その内容を確信して書く自信のほうがもうなくなってしまったようだ。だけど、まあ、もう一度書こうかしらん。

 今、リビングでこれを書いているのだが、ベランダに続く窓から見える空の色はいつのまにか青く暗くなっている。だいぶ、日が暮れるのがはやくなってきた。関東圏は先日の台風のあと、また暑さがぶり返してきたが、夕暮れは秋いろになっているらしい。もうそんな季節かとはっとする。消長でいうと「消」が、盛衰でいえば「衰」が、浮沈でいえば「沈」が訪れているのかもしれない。ベランダからの、暗く、静かな景色を眺めると、なんだか、生けるものの死にゆくような、もの悲しさが感じられる。

 「山の音」を読んだせいだろう。川端氏の「山の音」という作品の深い底には、老いから来る死への恐怖や不気味さが、いつも流れていた。僕もその老いの流れの感傷に浸っているのだろうか。だが僕は今年大学に入ったばかりのひよっこなので、老いなんてものは感じていないはずである。しかしもの悲しさは否応なく感じる。それはやはり、生けるものの死にゆくような、である。「山の音」で、老いから来る死への感傷に浸る主人公の老人は、その感傷を通して、家族や部下、能面や絵、庭や公園の植物をじっと眺める。じっと眺めて、老人は「ああ」と感動する。その感動は死への感傷から生きることに執着する「動」を見出すことでは決してなかった。だからといって、ひたすら「静」に落ち着いた諦念を抱いていたというわけでもない。

 生命とは、いずれ滅ぶ。集合体はわからないけれど、少なくとも個々の生命のかたちが永遠に生きることはない。そのことは、個々の生命が始まった瞬間に決定づけられる。残酷な話のようだけど、みんなそうだ。だとしたら、我々が生きていて、死を感じることは当たり前だ。

 

 畢竟、「生」や「動」というものは存在しない。「生」と「死」が、「動」と「静」が存在するのである。川端氏の文学にはかかる二組の共鳴に媚態と哀感をのせて、よく象徴化されていると思う。その二つを混ぜた灰色が、氏の説く、美しさであるのかもしれない。「山の音」は灰色なのだ。これから訪れる季節の消極的な情景は僕に上記のようなものを考えさせてくれるのだ。「長」や「盛」、「浮」なんてものはない、「消長」や「盛衰」、「浮沈」が存在するのだと。調和はとれるかわかりはしない、しかし二つの色彩がどろっと混ざり合う。

 こんなことを書いているうちに外は真っ暗になってしまった。窓を開けると天上から怒号が轟いている。雷だ。

 やはり変に不安で、寂しい感じだ。

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