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中原中也の埋もれた名作詩を読み直す。その36/朝(雀が鳴いている)


■■

桜と椿と。重なって咲く季節があります。


「朝(雀が鳴いている)」は
「朝(かゞやかしい朝よ)」とともに
1933年11月初旬に
山口帰省中に作られたと推定される作品。

詩人は
この帰省中に
見合いの末
結婚しました。

もう少し具体的に言えば
11月2日ごろ山口に帰り
遠縁の上野孝子と見合いし
12月3日に結婚式を挙げました。

見合いをする前に
詩人はすでに
結婚を決めていたことが想像され、
11月初旬に制作された「朝」2篇には
ともに
そのことの反映が
見つかるかもしれません。

そうしたことを意識して
この詩を読もうと
読むまいと
この詩がもつ謎のようなフレーズのいくつかからは
想像力をかきたてるに十分な
刺激的な匂いが放たれています。

雀が鳴いている
朝日が照っている
私は椿(つばき)の葉を想う

雀が鳴いている
起きよという
だがそんなに直(す)ぐは起きられようか
私は潅木林(かんぼくばやし)の中を
走り廻(まわ)る夢をみていたんだ

恋人よ、親達に距(へだ)てられた私の恋人、
君はどう思うか……
僕は今でも君を懐しい、懐しいものに思う

雀が鳴いている
朝日が照っている
私は椿の葉を想う

雀が鳴いている
起きよという
だがそんなに直ぐは起きられようか
私は潅木林の中を
走り廻る夢をみていたんだ

私は椿の葉を想う
――という1行は
その一つですが

恋人よ、親達に距(へだ)てられた私の恋人、
――という1行が含まれる
第3連全体は
何を意味しているだろうか。
とりわけ
親達に距(へだ)てられた私の恋人という詩行に
目を見はらざるを得ません。

回りくどい言い方はやめて
この恋人とは
長谷川泰子のことではないのかと、
問わないわけにはいきません。

この恋人が
長谷川泰子である可能性は
ないとは言えず
永遠に可能性として残るだけですが
仮に彼女であるとすれば

雀が鳴いている
――という1行
朝日が照っている
――という1行
私は椿の葉を想う
――という1行も

詩が
ひっくり返るような
転換が起こります。

だれが
それを決めるのか、といえば
これを作った詩人に聞けばわかるのですが
それができないのなら
この詩が決めるのですから
何度も何度も
詩を読んでみるほかにありません。

私は
いま
寝床の中にいます。

それ以外は
詩人の脳裏を去来し
胸中をめぐるものです。

自然に考えれば
この詩の中には
結婚を控えた者の
希望や期待や喜びが
横溢(おういつ)していて
当たり前のことです。

ですから
冒頭連の

雀が鳴いている
朝日が照っている
私は椿の葉を想う

この3行は
希望や期待や喜びの表現である
と読めますから

私は椿の葉を想う
とは、
雀が鳴き朝日が照る
春の朝に
艶やかな緑をたたえて
幸福そうな
つばきの葉のことが思えてくる、という
安定した気持ちを
描写しているものと
受け止めることができます。

肉厚な椿の葉の緑が
固有に放つ
安定した幸福感のようなものが
ピタリと言い当てられた、と。

雀が鳴いている、というのは
はやく起きて
こんなに希望に満ちた
幸せな時間を
寝ているなんてもったいない
さあ早く
この時間に参加して
たっぷりと味わいなさいよと
まるでキューピッドのように
何羽もの雀たちが
さわがしいまでに
はやしたてているようですが

でもねえ待ってよ
そんなにすぐには起きられるものですかってんだ
ぼくはね
潅木の林の中を
走り回っている
夢を見ていたんだよ
それはそれで十分に
楽しかったんだよ
――と書き継がれるところを
どのように読むか。

恋人よ
親や家族たちに
距てられている
ぼくの恋人よ
君はどう思うだろうか……
ぼくはいまでも
君を大切な懐かしい人と思っているよ
懐かしく大切に思っているよ

ああ
雀が鳴いている
朝日が照っている
ぼくは椿の葉のことを思っている
――というところの恋人が
長谷川泰子であってもおかしくはありません。

中也にとって
泰子は別格の存在でしたから
妻孝子との関係を超越することを考えれば
この朝に泰子を懐かしむ気持ちが起こることも
自然の流れです。

詩人はこのように
泰子の思い出を記し
孝子との間の幸福な時を
詩に刻んでおこうとしたという読みが
成立します。


最後まで読んでくれてありがとう!

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