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たおるくらげとインターネット

おふろがひまになった

かぞくとおふろ

おふろはわたしにとってとても大切な場所だった。
それは、衛生的に保つため、病気にかからないためということもあるけれど
家族4人が温泉が好きで、わたしたちふたごがまだ家を出る前は
週に1度は家族でお湯に浸かりに行くほどだった。
女性が3人もいるので、女湯では家族の会話が始まる。
まさに、はだかのつきあい。
3人は身体が解放されたなかで
大切か重要か喧嘩かもわからないおしゃべりをする。
おふろを出たあとは、さっぱりツヤツヤ。
お父さんは先に湯からあがって休憩所で寝ながらわたしたちを待っている。

コロナとおふろ

2020年コロナウィルスの広がりは地方にもおよんだ。
東京にいる妹、横浜にいるわたしは、人口密度の高い土地に住んでいるため地方の人たちに心配や不安をかけたくなくて、2022年の1月まで実家に帰らなかった。
家を出てから長期休暇には帰るようにしていたので、はじめて長期で帰ることがなかったことになる。

2020年はステイホームや緊急事態宣言など、2022年の今に比べると
コロナウィルスの情報が少なく、対応や対策さえも手さぐりだったように思う。その社会のなかで、わたしはひとり自宅で暮らすことになる。

もちろん、温泉、銭湯はその間に行くこともなかった。
自宅のおふろにまいにち入ることが日常となった。

ムダではなく、ひま

自宅のおふろは決してひとりぶんとしては狭くはない。
おふろの魅力で賃貸をきめたぐらいだ。おふろは好きだ。

コロナが起こってから運動も自由にできなかったこともあり、
2020年、わたしのひとりのおふろの時間はデトックスと言われるエプソムソルト、頭皮マッサージブラシなどを用いた血行をよくすることを目的にした。(5kgの減量に成功したりした。)

けれども、去年2021年はおふろが「ひま」だった。
「ひま」とは、何かしなくてもいいのか?とう脅迫感のある気づきのもと、無作為にスマートフォンを開き、情報収集やsns投稿したりする。なんとなく有意義なことを求めているのがみえみえなつまらない感覚だ。

清潔になったり健康になったり痩せたり「ムダ」ではないことは分かっているのに、おふろに入りたがらなくなった。おふろに魅力を感じなくなっていた。わたしはおふろ時間が「ひま」だった。

けれども、さすがに清潔でいるために、おふろは入らないといけない。
おふろに入りたくて仕方がなくなる楽しみを増やせばいいのではないかと考えた。
さっそく「おふろ」「楽しみ方」と検索をかけてみたのだった。


検索の先に

バスキャンドル?

インターネットの検索すると楽しむ方法とそれをいろどる言葉はたくさん出てきた。
バスキャンドル、バスボム、瞑想浴、読書、動画・・・
贅沢、快適、充実、有意義、ルーティーン、ムード・・・
そして紹介後には、楽天かamazonのネットショップリンクがあり、すぐに買い物ができて、とても便利だ。

商品の購入をクリックをしようとしたとき、ふと自分の今月のおさいふの残りが不安になった。お金持ちならこんなことで悩む必要がないのであろうが、今のわたしでは仕方がない。

もしもしばぁちゃん

けれど、待てよ。
子どものころ、わたしは自分のお金を持っていなかった。
わたしはなぜ、おふろを嫌がらなかったのだろう。
ある程度の時間、辛抱強くおふろにつかれたのはなぜだろう。
子どもは時間をしばられるのはしんどいに違いない。
ひまをもてあますに違いない。
ふたごの妹との時間が楽しかったから?
お母さんに怒られたくなかったから?
数を数えるのが楽しかったから?

そうだ。
「たおるくらげ」だ。
「たおるくらげ」はわたしのお気に入りのあそびだった。
そして、それを教えてくれたのは、おばあちゃんだ。

幼稚園のころ、お母さんはときどきお昼にお父さんの会社を手伝って
夜はともだちとママさんバレーに出かけることがあった。
そんな日は半日、わたしたちはおばあちゃんと一緒。
お風呂にも3人で一緒に入る。

わたしたちはおかあさんのお母さん、おばあちゃんを「もしもしばぁちゃん」と呼んでいる。
おばあちゃんに電話をすると『もしもし』とやさしい声がするからだったように思う。いつそれが定着したのかは覚えていないので、その理由もあいまいだ。けれど、もしもしばぁちゃんの『もしもし』という言葉の音が好きだった。
もしもしばぁちゃんは18で家に嫁いだけれど、旦那さん(わたしのおじいちゃん)が結婚して数年で死んでしまったため、戦後母子家庭で2人の子どもを育て、長屋でタオルの袖を縫って生活していた。わたしの地元はタオル産業が盛んなため、わたしたちの生活はタオルが身近だった。

「たおるくらげ」とは、タオルをもちいてくらげをつくる遊びだ。
水のなかに浮かべ、ぷかぷか浮かび、ぶくぶく話す。
大きいくらげも小さいくらげも作れる。
人形遊びや戦争ごっこもすることができる。
わたしはふたごなので、ひとりがもしもしばぁちゃんに身体を洗ってもらっているとき、もうひとりは順番待ちをしないといけない。
その会話相手にもいい。
水から離れると時間にしたがってしぼんでしまう愛しいくらげだ。

おふろのなかにタオルをつっこむだなんて、マナーが悪いと言われてしまうかもしれないがこれが楽しいのだ。

たおるくらげとのおふろ

おとなになってたおるくらげを忘れていた。
けれど、2021年わたしはたおるくらげをつくった。

おふろには、わたしたちのこころをと動かす
いきものが住んでいるのかもしれない・・・と
ファンタジーや想像の世界に迷いこむ感覚と
目の前に横たわるたおるを通る泡、空気、その圧力、
お湯で火照る身体、たしかにそこにリアルがあるという事実の情景がある。
子どものころに生まれた感情なのかリアリティが湧いてくる。

この感覚と目の前にひろがる情景は、わたしをぼーっとさせ
集中させ、疲れになるまでつづいた。
『楽しさ』『集中』『疲れ』『飽き』はいつもわたしのなかで想像と身体変化により生まれ循環し、わたしを代謝・拡張させ変化させていることがみえてくる。
『ひま』とは、その循環が止まることなのかもしれない。
想像と情景はわたしを決してひまにしない。


SEOではみつからなかった想像と情景

ひまにならない方法は
知らないみんなが教えてくれるアドバイスよりも
じぶんのなかにいたみんなが教えてくれる。
友だちが、家族が、先生が、まちの人、自然、建物がいつぞやか言っていた態度や言葉・・・。

2021年わたしは、ひまであることを拒み、
おふろでの楽しさをインターネットで検索した。
SEO化されたインターネット世界では経済や社会を動かすことが最優先で、わたしたちがお金を使うこと、お金をもらうことでひまを埋めるように呼びかける。

それも正しい世界なのだろうけれど、ひまは決して他勢の理屈では操作できない世界にあるのかもしれない。
たおるくらげはわたしのひまの世界をおよいでいる。


(参考)たおるくらげの作り方

①銭湯で売られているような、うすいタオルをお湯を入れた桶に入れ、なじませながら、糸くずや汚れ、石鹸などをよく落とす。

②洗ったうすいタオルを広げ、その真ん中ににぎりこぶしの手をゆったり入れ、タオルはぶらんとにぎりこぶしにぶら下げる。

③そのポーズのまま、身体とともにこぶしをおふろに落とし、タオルを浮かべる。このとき、タオルのこぶしの部分に空気が入るように、すそのタオルの一部を浸したら、すぐさま手をぬく。

④空気をもって膨らんでいるタオルの一部分を親指と人差し指で閉じこめる。

できあがり!


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