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たるみゃきゃぷるわいぴゃあ

 わたしの言語群にたるみゃきゃぷるわいぴゃあというものがあって、分解するとたるみゃきゃぷるわいぴゃあになる。

 この3語で特に重要なのがぷるわいで「二つを結びつけるその接合部」を意味する。

 例えばコンクリートの上に立つ人がいたとして人はたるみゃきゃでコンクリートはぴゃあ。足の裏とコンクリートの接する部分がぷるわいである。裸足なのであれば足裏の皮の接した部分がぷるわいとなり、靴をはいているのであれば靴裏のゴムとコンクリートが接した部分がぷるわいとなる。

 ここで気付くのはぷるわいは無数に存在しており、靴をはいているのであればその中で足と靴のたるみゃきゃぷるわいぴゃあが起こっており、靴下をはいているのであればまたそこに靴と靴下、靴下と足のたるみゃきゃぷるわいぴゃあが起こっている。

 数多存在しているぷるわいというものは突き詰めるとやっぱり「二つを結びつけるその接合部」であるのだけど、こういった単純化された語というのは得てしてそこから意味が転用されていく。

 とあるたるみゃきゃぷるわいぴゃあについて触れる。それらは夫婦とネコであった。

 保夫(仮名)と春子(仮名)は仲のいい夫婦だったが時がたつにつれて熱が冷めていった。同じ家に2人いるだけといった状態になっていたがある日保夫が一匹の灰色のネコを拾って帰った。保夫も春子もネコが好きで、とてもかわいがった。ネコを挟んで2人はたくさんの会話を再びするようになり、いつしか以前よりも深い愛情をお互いに感じるようになった。

 このようにネコは緩衝剤となって二人をよりよい感情へと導いたわけだが、こういった現象もたるみゃきゃぷるわいぴゃあである。このケースでは猫はぷるわい、保夫と春子はそれぞれたるみゃきゃぴゃあである。猫と二人は直に接しているわけではないが、お互いを思いやるために必要な要素となっているのでぷるわいと表現されるのだろう。

 先に述べた例よりもだいぶ概念的だが、これは語の意味が本来の純粋な意味を離れて運用されていく過程を顕著に表しているといえる。

 また別の例について触れる。彼女は別個体の考えが自分の中に入り込んでしまうという経験を常にしている特異体質である。

 彼女が椅子に座るとそれが何を考えているのかが流れ込んでくる。どうしてそうやって簡単に尻に敷くことができるのか…と恨み言を言われる時もあれば、花瓶に水を入れるとお礼を言われることもあるという。しかし、それらは流動的で翌日また触れるとまた違う人格として考えを垂れ流すらしい。(彼女は直前に触れていたモノの感情回路を借りてヤツらは思考しているのではないか、と考察していた)

 彼女がそのままの意味で対象とたるみゃきゃぷるわいぴゃあしていることは事実だが、同時に違った意味でのたるみゃきゃぷるわいぴゃあが起こっている。

 物質世界におけるたるみゃきゃぷるわいぴゃあに覆いかぶさる精神世界のたるみゃきゃぷるわいぴゃあ。単純な接合部ではなく、思考が流れこむ磁場のようなものを彼女はぷるわいと感じている。

 こういった特異な例も中にはあるが、もっと身近なところにもぷるわいはある。料理においての油であるとか、昨日・今日・明日という連続した日々においての今日であるとか、家族でそろってみる映画であるとか・・・。

 街を歩くとこういった隠れたたるみゃきゃぷるわいぴゃあを見つけることができる。ずっと昔からあるもあれば、次の瞬間消えてしまうものもある。そこに寂しさも感じるが、またその次の瞬間生まれたりもする。

 こうたくさんのたるみゃきゃぷるわいぴゃあがあると頭が混乱してしまうがすべては一つの意味から派生してる。

ぷるわいとは「二つを結びつけるその接合部」たるみゃきゃぴゃあぷるわいによってつながった二つの個体のことである。


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