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プライドと偏差値

プライド。人間にとって非常に大事な要素の一つである。今回はこのプライドという、重要ではあれど場合によっては厄介なものについて考えてみたい。



国公立だからか、同級生や先輩にはプライドが高い人が多いように感じる。この場合のプライドは、主に学力におけるものである。厳しい受験戦争を勝ち抜いた者は、自分に誇りを持って然るべきだとは思う。

しかし、同時によく聞くのが、「プライドは捨てた方が良い」という類のフレーズである。

「あいつ、プライド高いよね〜」
「プライドをいかに早く捨てられるかが勝負」
「プライドだけ高い陰キャ」

上のような文言をしばしば耳にするのである。

高校時代は(主に学力において)自分の価値を高く認めていた人ばかりの集団の中に、そのプライドを今度は捨てようとする風潮が存在する。一体なぜだろうか。



考えた結果、ひとつの逆説的な答えに辿り着いた。それもプライドによる、というものだ。

高校時代は、集団の中で自分の学力が比較的高いことによって自尊心を満たしていた人が、上澄み層だけ集めた集団に移った場合、それまでの方法では難しくなってしまう。
しかも大学の授業は、テストだけではなくレポートや出席も成績に加味されることが多く、高校までのように、"ペーパーテストの点数"という分かりやすい指標が出ないのだ。そのため数値で自己評価する事ができない。



そこで、「高いプライドを持つ人」よりも「プライドを捨てている人」の方が上位であるという階層構造を作り出し、自分はプライドを捨てていると認識すれば、集団内では上位に位置できていることになる。
ただ重要なのは、本当にプライドを捨てているわけではない点である。自らのプライドを保つために働く心理なのだから、捨てているわけがない。あくまで捨てているように演じているだけ。その演技は自らをも欺いているのだ。



この心理は、部外者から見ればいささか奇妙なものに映るはずである。
「なんで?受験という競争に勝ったんだからそれでいいじゃん!」こう言われるだろう。

しかし、この国の偏差値至上主義の下で、10歳やそこらから数々の競争を勝ち抜いてきた者にとっては、いかなる集団の中でも勝たなければいけないのである。勝つ事により自分の存在を認めてきたのだから。
周囲を下に見る事によってしか己に価値を見出せない人間は、偏差値によって優劣が決まる世界が産みだした悲しき怪物と言わざるを得ない。



一方で、私はこのように「プライドを捨てているように演じている人」よりも「プライドをちゃんと持つ人」が上位の存在だと定義し、自らは後者だと認識する事で自尊心を満たしているのである。結局同じだね!



とそんな冗談はさておき、自尊心というものは「他者との比較で得るべきではない」ことは確かだ。それに関してはまた考えたいと思う。

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