見出し画像

毎週芥川賞を読む vol.2『コシャマイン記』

最近「にゃー」と言ってしまう癖がある。難しい状況に対面したときに出てしまう鳴き声で、猫をオマージュしている。

たとえば土曜日の正午に起きてしまったとき、「にゃー」。人と話し合っていて、そろそろ結論がまとまりそうな段になって別の論点が見つかった時、「にゃー」。最近ランニングを始めたのだけど、後半疲れてきた時も走りながら「にゃー」って言ってて怖くなった。

一応解説しておくと、猫と、猫の鳴き声は可愛いので、悲しい出来事によって発生したマイナスを相殺し、何も起きなかったことにしてくれます。

猫はいつも可愛くてえらい。

鶴田知也の『コシャマイン記』はアイヌの青年コシャマインと、日本人の争いを叙事詩風に描いた作品で、第三回芥川賞の受賞作のひとつ。(第二回芥川賞は受賞作なしのため飛ばしています)

物語は、アイヌの勇猛な英雄である男が、押し寄せる日本人の大群から妻シラリカと息子のコシャマインを逃がす場面に始まる。コシャマインはいつか父の敵を討ち、アイヌの誇りを取り戻すべき存在。コシャマインはシラリカと共に数々の苦難に巻き込まれながら各地を旅し、強く育っていく。

物語前半はこんなかんじ。自分が感じた印象は『バーフバリ』とかに近くて、いわゆる神話エンタメという感じだった。
英雄になる運命を背負い、人間とは思えないほど強くて勇敢、そして神からの加護を受ける主人公コシャマイン。彼がどのようにアイヌを救うのかわくわくさせられる。

しかし物語後半、展開は予想から徐々に外れていく。

日本人は鉄砲を使用するようになり、様々な陰謀を図ってアイヌをコントロール。雄大な自然は日本に提供する材木や食料となり、アイヌの各部落はそういった利権を引き渡すことで日本と友好な関係を持とうとする。
成長したコシャマインはアイヌ各地に蜂起を呼び掛けるが、アイヌの部落はどこも日本にかなわないことに気づいており、誰一人ついてこない。
絶望したコシャマインは川辺で母と妻と暮らし、最後は日本人に騙され、殺される。

シャッターのイラスト。
ここにゴリラを配置する意思が怖い。

率直に、すごくおもしろかった。文体とテーマがまず面白い。

テーマに関しては選考委員の室生犀星が「文明と野蛮とのいみじい辛辣な批判」と選評で述べているように、文明という激流に押し流されていく様を描いているのだと思う。神話(だと思って読まされていたもの)すらも押し流されていく様子は結構ドキドキする。

ただ個人的に面白いと思ったのは、そういった俯瞰で見たときのテーマ以上に、コシャマインやその母、妻など個人の心情の部分だった。
作品内では彼らの気持ちやその変化はほとんど描かれないし、おそらく作者もそこを見てほしいわけではない気がするのだけど、想像するとすごく切なくておかしい。

物語前半のコシャマインはとても勇敢でかっこいい。英雄になるべきカリスマ性と神聖さがあって、本人もそういった自分の運命や素養を理解している。

「キロロアンよ、起て(たて)!私の後に続いて戦え!」

『コシャマイン記』

部下を激励するこのセリフは5歳くらいのコシャマインが言ったもの。生まれながらにモノが違う。
僕が5歳の時はインフルエンザの予防接種を強要する親になんとか反抗したくて、注射された後死んだふりとかしてた。

あとコシャマインは英雄過ぎて、人だけじゃなくて山とかにもカリスマ性を示そうとする。

彼は見はるかす群峰の重畳(ちょうじょう)たるかなたに向かって、あらん限りの声をあげた。それは群峰をして彼のほうへ振り向かしめようとしたのであった。

『コシャマイン記』

英雄としての自負がありすぎる。「にゃー」とか言いなよ。

そんなカリスマ少年コシャマインだけど、晩年がかなり切ない。アイヌの部落をまわって日本に反旗を翻すことを提案するも、日本を恐れたアイヌはだれ一人乗ってこない。そのあとの彼の描写がこれ。

彼は口髭ばかり嚙み続ける無口の男となったのである。

『コシャマイン記』

すごい変化。ひげをずっと噛んでるおじさんになっちゃったもん。これ以降コシャマインはずっと暗いし、特に何もしない。割と偏屈なおじさんになってしまう。

で、これを読んで、逆カリスマ男の僕は「恥ずかしかったろうなあ」とか思ってしまう。いや絶対コシャマインは恥ずかしいとか思ってないんだけど、自分がコシャマインだったら恥ずかしくてたまらんなと思う。

自分の事をずっとカリスマだと思ってて、そういう風にふるまって生きてきたのに、突然そうじゃないことを突き付けられる。なんか全然カリスマじゃなくて、やることなくなっちゃって、いやこれめっちゃ恥ずかしい。

僕は中学校の給食の時間に、一緒に食べる班のMCを勝手に務めてた。
「今日はあの子あんまり喋れてないから話振ってあげよう。微妙な空気になったら俺がツッコんで助けてあげよう」とか本気で思って行動に移しちゃってて、その結果自分の食事に集中できず、いつも時間内に食べ終わらなかった。でもそれは自分の働きの証で、昼休みになっても机に残った給食を見て、いい仕事をしている気持になっていた。

そんなMCの僕がインフルエンザで学校を一週間休んだ時があった。週明けに復帰して初めての給食、いつも通り人に話を振り、ツッコみ、場を回し始めたその時、運動神経の良いK君が持っている箸を僕にすっと向けた。「お前、久しぶりでもほんと面白くないなあ!」

まず最初に起きた感覚はびっくりだった。「えぇ!俺面白くないのか!」って素直に驚いた。少したってからやっと状況が呑み込めてきて、今までどう思われてたんだろうとか、自分が休みの間何言われてたんだろうとか、そういうことを考えると恥ずかしくて恥ずかしくて、顔が上げられず、すごくスムーズに給食を食べ進めた。
以来、僕は今でもご飯を食べるのがわりに早い。

この時の感覚を勝手にコシャマインに投影させてしまい、作者が望む読み方とは全く違うものになってしまった。

いや何度も言うように、コシャマインがそんなしょうもないこと人ではないのはわかってるんだけど、いやでも少なくとも周りのお母さんとか妻は絶対なんか思ってたと思う。カリスマだと思ってずっと連れ添ってきたのに、世話してきたのに、いつの間にか黙ってひげ噛んでるんだもん。絶対思ってるよ!

そういうわけで、まったく本筋でないところで楽しんでしまった本作だけど、そういう部分がなくとも普通に面白かったのでおすすめです。

次回は『コシャマイン記』と同じく第3回受賞作の小田嶽夫の『城外』。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?