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蓮華 (短編小説)

新年になった。
里の空に凧が上がり獅子舞の笛が鳴り人が行き交う。
例年の光景だが今年は少し違うと領主の娘である蓮華は聞いている。
館の中でも領内でも「鬼」という言葉が飛び交う奇怪な年明けなのだ。

その蓮華の父が側近の山崎につぶやいた。
「真冬というのに空がやけに蒼く、風も生ぬるく暖かい」
「やはり今年は『鬼』が出ましょうか」
「出るやもしれんの」

昼近く、蓮華は祖母の部屋にいる。
館に伝わる「鬼」についての伝え話しをこれから聞こうとしている。
前に祖母、その横に蓮華の守役の山崎、後ろには蓮華の警護役でもある弥生が座っている。
弥生は文武も乗馬にも長じた女傑で蓮華がもっとも頼りにしている侍女だ。

祖母が蓮華に言った。
「では蓮華、山崎の鬼の話しをよく聞いておくのじゃぞ」
「はい、かしこまりました」
蓮華は11歳、何にでも興味を示すが、特に鬼とか冥途とかいうこの世の端にあるようなものに興味があるらしい。

「蓮華様、伝え話しですので話しが少々長うございます。わからぬことがあれば、その都度おっしゃってくだされ」
「はい」

山崎の話しが始まる。
「猿川の村の奥にあるブナの大木に「鬼」が閉じ込められていること、近づいてはならぬ決まりがあることはご存じですな」
「うん、知っておる」

「伝えられてきたこの話しの中身は、どこまで本当やらわかりませぬ。なので昔ばなしのつもりで聞いてくだされ」
「あい、わかった」
蓮華は話しの呑み込みが早いので山崎の話しも進む。

「行者の祈祷によって鬼がブナに閉じ込められたのは今よりちょうど三百年前のこと。
荒ぶる鬼で悪事も悪さもする鬼に困り果てた当時の領主は行者に鬼の始末を頼みました」

「どのような鬼であったのか」
「荒ぶるとか鬼とか伝えられてはおりますが、その中身ははっきりとせず、それを裏付ける証も書きつけもございません」
「どんな悪さをしていたかもわからぬのか」
「わかりませぬ」

蓮華は祖母に尋ねた。
「婆様、鬼といえば普通は人を殺(あや)めたり、さらったりするのではありませんか」
「そうじゃが、伝え話には死人もケガ人も出てこぬ」
「弥生も知らぬのか」
「はい、弥生もお婆様と同じにございます」

「ならば鬼は鬼ではないのではないか、山崎」
「ご明察、拙者も同様ですが祖父も曾祖父もその先代たちも同様にございます。されど代々「鬼」と伝わってきましたので変えることもなくそのまま申し上げております。」

「あいわかった。その鬼が現れるのが、三百年後の今年というわけじゃな」
「はい、そのようですが本当に現れるのかどうか、誰にもわかりませぬ」
「なぜ三百年なのか」
「そこが問題なのですが、伝えによれば珍妙なる話しでございまして」

「珍妙なのか」
「はい、今よりさかのぼること三百年前、領主たちが見守る中で行者は半日かけて祈祷を終え、鬼をブナに閉じ込めたそうにございます。
ところが祈祷を終えた行者の様子がおかしい。領主が尋ねると、行者はこう答えたそうにございます。

『昨日より腹の様子がおかしゅうての、我慢して最後までやったが途中で痛みも増してきての、ついうっかりな祈祷の文言の一部を間違えてしもうた。一旦唱えれば後には戻れぬし、仕方ないのでそのまま続けた。
ご領主殿、少し間違えたが許してくれ。悪意はない』

領主は当然ながら行者を問い詰めました。
『ちょっと待て、一部を間違えたとはどういう意味じゃ』
『じゃから間違えたんじゃ、過失じゃ、仕方なかろう、見逃がせ』

領主は怒りました。
「そりゃ蓮華でも怒りまする」
弥生の小さな笑い声が聞こえた。
祖母も山崎も笑っている。

領主は怒りながら行者に言いました。
『この鬼はブナに千年閉じ込める約束じゃ、それは間違いないの』
『確かにその約束でございましたが、それが』
『それが、違うのか。千年の約束を違えれば一大事であるぞ』

『は、腹が痛くて、今も腹がキリキリと・・』
『そちの腹具合なんぞどうでもよい、千年はどうなった』
『さ、さようでござるな、わしの見当では六百年くらいか・・』
『くらいとはなんじゃ、ええ加減なことを言うな、確かなことを言え、言わねば首を斬るぞ』

『ゆ、許してくだされ、首はこれ一つしかござらぬ』
『ふざけるな、これは子々孫々に伝えていかねばならぬ大事じゃ。何年閉じ込めたのか確かなことを言え』
『三百年になったのじゃ』

『威張るな!千年が六百年になって今度は三百年か。許さん、最初からやり直せ』
『それはもう無理じゃ。ここでやり直せば前よりも状況は悪くなる。それでも良ろしいか。それに祈祷料も追加してもらわねばならぬ』

領主は行者をぶん殴ったそうにございます。
蓮華が言った。
「行者の自業自得じゃな」
三人も笑った。

領主は言いました。
『この上、銭の追加まで求める気か、なんと厚かましい奴じゃ。でその三百年は間違いないのか、間違いない、のじゃな』
『それは間違いございませぬ。千年の千とするところを、三百にしてしまいましてな。六百はウソでござった。許してくれ』

『六百はもうよい。しかしなぜ三百になったのか』
『お、お許しくだされ』
領主が刀を抜きながら行者をにらむと、行者は震えながら言うたそうにございます。
『昨晩、旅籠で旅の者たちと博打をしましての、そこで負けた三百・・・を思い出しまして・・』

あっけに取られた領主は行者一行を領内から追い出したそうにございます。
別の行者をとしたものの、すでに祈祷がかかっており、無理となりました。その年から数えて三百年が今年になります。

言い伝えの通りならば、あのブナの木に閉じ込められた鬼が今年は現れることでございましょう。しかしどのような鬼なのか、「鬼」という言葉だけが一人歩きをしておるのが現状にございます。現場には番所を置き、館でも武具をそろえ、いざというときに備えてはおりますが」

蓮華は言った。
「もしもそうならば、鬼は三百年も待ってじりじりしておるに違いない。今年も早い時期に現れるのでは、ひょっとしたらこの正月にも」

祖母が言った。
「その通りじゃ、蓮華はよう思いついたのォ」
「へへへ」
と蓮華は楽しそうに笑った。
蓮華は大人が自分の言葉を聞いてくれたのが嬉しくてたまらない。


 日が替わり二日になった。
まだ山の端に闇が残っている早朝のこと。
猿川の番所から使いが館に走り込んできた。
父は寝間着のまま出てきた。

「鬼が出たか」
「はい、現れました」
「様子は、暴れておるか」
「いえ、顔だけが現れております。それもブナの幹の人の高さのあたりに顔だけがゆらゆらと」

「顔、鬼の顔か」
「いえ牙も角も毛も無く、並の人間の顔でございます」
「他には」
「揺れながら何やらわめき続けております。ただ口が開くたびに、凄まじい悪臭というか口臭が吐き出されてまいります。あの臭さは尋常ではありませぬ」

「それでお前も臭うのか、入ってきたときから臭いぞ」
「やはり臭いまするか。着替えても身体にも沁み込んでおります。馬も臭いがついており、人馬一体で臭くなりました」
「人馬一体でか、それにしても臭いの、しかし口臭のひどい顔だけの鬼とはの」

「それにあの口臭は重いのか、小さな風では流れずに地にたまり、それがどんどん重なって霧のように辺りに広がっております」
「恐ろしい口臭じゃな、外になんぞ被害は」
「口臭以外には何もございませぬ」

「わめいているとは、何をわめいておるのか」
「それがはっきりとしませぬ。何やら恨み言のようにも聞こえると皆で思うてはおりますが」

父は使いの者に命じた。
「ご苦労であった。わしは供の者ともにすぐに行くと伝えてくれ」
「かしこまりました」

使いが出ると父は山崎に問うた。
「使い番の身体から臭うたすさまじい悪臭は何か、わしゃ臭うたことがない。お前わかるか」
「死人の腐った臭いに似てはおりましたが、何ともいえぬ不愉快な臭いでしたな」

集まってきている若い家臣が言った。
「何というか、怒りを覚えさせるような奇妙な臭いでございました。あのような臭い、初めてでござる」
そういえば一同がなぜか怒りたくなるような気分になっている。
「その顔の言っておることは怒りの言葉であろうかの」
父が言うが皆にもそこはわからない。

「まっよい、とにかく急ごう。念のため槍も弓も連れていく。山崎も来い」
「は、お供いたします」
父たちは馬屋に走った。
それを襖の裏から聞いていた蓮華はすぐに奥に引っ込んだ。

父は山崎たちとともに馬に乗って猿川に向かった。
猿川が近づくと向こうから百姓や領民が逃げてくる。
みな手拭いや着物の端切れなどで顔や鼻をおおっている。
中には倒れこんで横になって「臭い臭い」とわめいている者もいる。

「ケガ人はおらぬか」
猿川の庄屋が答えた。
「おりませぬ」
「この辺りからすでに異様な臭いがするの」
「皆の家の中にも臭いがとどまって外に出ませぬ。たまに吹く風すら臭いのですからこうやって逃げてまいりました。迷惑な臭い鬼でございます」

「そやつ、顔だけさらしているようじゃが、どのような顔じゃ」
「少々くたびれた、四十歳前後くらいの顔ですな」
「怪異な顔ではないのか」
「そうとは聞いておりましたが、とてもではありませぬが怪異には見えませぬ。となり村の豆腐屋のような顔にございました」

「豆腐屋に似た鬼か。何か言うておるらしいな」
「初めは何を吠えているのかわかりませんでしたが、向こうが慣れてきたのか『わしの恨みはつきぬ、わしをここから出せ、恨みを晴らす』と叫んでおりました」

「そなたたちに危害はくわえてはおらぬのじゃな」
「はい、危害という危害は何も、ひどい臭いだけにございます」
「とにかくケガ人もおらんで良かった」
「ご領主様、はようあいつを何とかしてくだされ。あの臭いでは家に帰れませぬ」
「わかっておる、しばし待て」
山崎たちに号令をかけ一斉にブナの木に向かった。

「害も無く、臭いだけの鬼、恨みごとを口にする訳ありの『鬼』とは意外じゃった」
父は馬を走らせながら思っている。

ブナの森に近づくと臭いは一段とひどくなってきた。
そのうち馬の中には止まるものも出てきた。
いきなり止まって乗っている者を振り落とし、しやがんで顔の先にある鼻の穴を前足でこさぐような仕草をしている。

馬にもこの臭さは堪えるのだろう。
馬を置いて歩く者も出始めた。
父の馬も走らない、首をだらっと垂れてとぼとぼと歩いている。
臭いが一段とひどくなる。

ブナのてっぺんが見えてきた。
ブナは大きく育ち豊かに葉を茂らせ 森をつくり鳥や獣を守っているような神木ともいえる存在の木だ。
日本の森にはなくてはならない木でもある。

父たちは馬をつないで近づいた。
その顔はゆらりゆらりと揺れながら目だけは父を見ている。
一行の中で誰が主(あるじ)なのか見定めたようだ。
なぜか風が吹き始め、臭いが流れていく。

「これが鬼の顔か、豆腐屋もこのような顔か」
みなが一斉にどっと笑った。
すると顔が一瞬で変わった。

目が吊り上がり、明らかに怒っている顔だ。
そして雷のような大声で父に向けて怒鳴った。
「お前が頭領か」
父はその口臭に一瞬身体がふらついた。

山崎が手拭いで鼻を押さえながら言った。
「この方が主殿じゃ」
顔は父に言った。
「本当にお前が主か」

「ああそうじゃ、わしが主じゃ」
「いや違う。貴様はあいつに似てもおらぬ」
「三百年前のことか、領主はすでに替わり、わしの家はここへ移ってまだ二百五十年じゃ」
「三百年前、あれから三百年か、そうか、そうじゃったか・・」

嵐のような猛烈な口臭に父も山崎も一同も包まれている。
父は手拭いを三本束ねて鼻に当てた。
「お前の口の臭さ、お前の口臭は鉄砲千丁以上の威力じゃ、お前は何者か」
父は臭くて吐きそうになっている。

「お前ら臭い臭いというが、わしに口臭はない。冥界のわしに口臭なんかあるわけがない」
「いや、お前は臭い、臭いのじゃよお前の口は」
「わしゃ口臭なんかないと言っておろうが、人をバカにしおって」

「自分でも臭わぬか」
「ないものが臭うか、たわけめ」
父は三本束ねた手拭いを顔の鼻の前に突き出した。
「・・・・・ ゲッ」
「こうすれば臭うようじゃな、自分でも臭かろう」
「ウ、確かに臭い・・」

山崎が横から父にそっと言った。
「どうされますか」
「すでに三百年の軛(くびき)は解けておるから、次も行者にやらせるのが一番であろう。明日行者を呼んでこやつを冥界に戻すことにしょう」

顔は父たちの話しが聞こえる。
言い過ぎたと思っているらしい。
ぼそっと言った。
「戻されるのか、わしゃここから出たい」

「無理じゃ。永遠に戻ってもらう」
「いやじゃ」
「そこを出て何になる。あきらめよ」
「いやじゃ」

父は顔に言う。
「その臭い息では嫌われるのがおちじゃ。ここから出てそなたの勝手のために万人を泣かせる気か」
「そのような気はないが・・」

「それに吐く息がなぜそれほど臭いのか、自分でわからぬか」
「わからぬ」
「臭いの元が何か、それもわからぬか」
顔は一心に考えているがわからない。

 とそこへなんと弥生が馬に乗ってやってきた。
見ると弥生の背中に蓮華が抱きついている。
蓮華は「臭いの、臭いの、あっちへゆけ」と言いながら馬から降り、みなの間をすり抜け父の横に立った。
大人より娘の蓮華のほうが顔には効くかも、蓮華ならひょっとすれば、と父は直感し、蓮華の勝手にさせた。

顔が蓮華に言った。
「お前、主に似ておるの、娘か」
「そうじゃ、娘の蓮華じゃ」
「わしが怖くはないか」
「怖くはないが臭い」

「やはりの・・」
「そなたなんで臭い」
「口臭じゃよ」
「その口臭の元はなんじゃ」

「お前の父にも聞かれたが思い当たらぬ」
「ではなぜブナの木に閉じ込められたのか、言い伝えでは荒ぶる鬼で悪事も悪さもしたと聞いたが本当か」
「わしは荒ぶれてもおらず悪さもしてはおらぬ」

蓮華の問いは続く。
「そなた、ひょっとしたら恨みを持っているのではないか」
顔が一瞬グニャッと歪んだが、おどろいおたのは父や皆たちだ。
蓮華は「恨み」という言葉をどこから引っ張ってきたのか、大人の話しを聞いたのか、う~んと居並ぶ大人たちは腕組みしながら蓮華を見ている。

「わしが誰かを恨んでいるというか」
「そうではないのか」
顔は何か思い出すように目をつむった。

顔が目を開けた。
「思い出した思い出したぞ、あの夜のことを」
口の臭いが軽くなっていることにみなが気づいた。

「わしが九つのときじゃ、親子三人で父は大店の番頭じゃった。
ある夜、その店に押し込み強盗が入った。たまたまいた手代を殺して蔵から大金を盗んで消えた。
強盗は鍵を開けて蔵に入っており、真っ先に疑われたのが蔵の鍵を預かっていた父だ。

合鍵を作らせたのではないか、手引きしたのではないかと疑われ、番所に引っ張られ、半年も牢屋に置かれ拷問されそのまま亡くなった。
結局強盗の仲間とされたのだ。

大店から母もわしも追い払われ、母親は病んだあげく亡くなった。
わしは親戚の家でゴミのように扱われ、家から家へと転々と廻されるうちに強盗が捕まったことを知った。
強盗の一人が酒で暴れているときに、そのことを口走ったらしい。

そして強盗を引き込んだのは店の息子だった。
息子は放蕩者で店の金を使い込んだあげくヤクザに賭場の莫大な借金まで清算を要求されていた。

そのためにヤクザに押し込みをやらせて金を奪わせ、わしの父が責められるように取り締まり方の役人にまで銭を渡して細工をしていたのじゃ。息子は強盗の一部始終を手代の血まみれの遺骸の横で見ていたという。

強盗と息子そして役人はその後磔獄門になったが、それで店や親戚へのわしの恨みが変わるわけではない。
「息が臭いのはその恨みであろうな、でもなぜブナに閉じ込められた」
蓮華は子どもを脱して大人になったように見える。

「それはまた別の話しじゃ。四十になったころにな、僧になろうとみちのくの奥の寺に入った。神仏混淆の寺での、そこで行者にもなり恨みを晴らすため呪詛まで習った。ところが今度はそこでいじめ続けられた。最初は言葉さえよく通じず、いくら習っても都からきた異端の者扱いされ、耐えられず、放浪の末ここまで流れてきた。

あげくここでもよそ者扱いでの、地元の奴に讒言(ざんげん)されて盗人にされた。じゃがわしが行者でもあったと知り、下手に死罪にすれば後難がと心配したらしい。でのそのときの領主がわしを鬼に仕立てたあげく、行者を呼んでこのブナの木に閉じ込めたのじゃ。
あっちでもこっちでもついておらん、本当についておらん人生じゃった」

蓮華は言った。
「ほんまについておらぬな、気の毒にの。しかしそのおかげで今もこうして人と話しができているではないか、ものは考えようじゃ」
父も山崎も弥生も蓮華の言葉を聞き、下を向いて笑っていた。
顔も泣くような笑うような顔をするしかなかったようだ。
何せ相手は11歳の娘だ。

そして顔は思わずか、ため息のように大きく息を吹き出した。
蓮華が言った。
「鬼よ、臭くないぞ」
父もみなもおどろいた。
顔の口臭が確かに臭くなくなっていた。

「抱え続けてきた怨念が口臭となって外に出ていたのであろう。その怨念を言葉にしたことで臭いが消えたのであろうな」
父が言うと山崎も皆もうなづいた。
みなが改めて蓮華を見た。
蓮華は顔の頬を静かにさわっていた。

父は顔に言った。
「明日行者を呼んでお前を向こうに戻す。気の毒じゃがお前はこの世にいてはならぬのじゃ、よいな」
顔は目をつむって言った。
「よい、戻してくれ。なんぞ胸の大きなつかえが取れた気がする」

 あくる日、顔の前に護摩壇がつくられ、結界が張られ、行者が祈祷に入った。
最後に剣をふるって全てが終わった。
「もうよろしゅうござる。すぐに顔は消え冥途に戻ります」

蓮華が尋ねた。
「恨みはもうよいのじゃな」
顔は答えた。
「三百年前では誰も生きてはおらぬしの、みな冥途で仏じゃ。いまさら恨みでもあるまい。もうよい。人を恨み続けるのもやめた。蓮華のおかげじゃ、礼をいう」

顔の表情が変わっていた。
「ええ顔になっておるではないか、それがお前の本当の顔じゃったのであろうの」
顔が嬉しそうに笑うとグニャと歪みそのままブナの中にスッと消えた。
ブナの葉が一斉にザーッと揺れ、光の玉が空に上がっていった、ように見えた。

父が行者に尋ねた。
「もう出てはこぬの」
「はい、永遠に出てはきませぬ。良き方々に囲まれた最後でしたな」
父は蓮華の肩をそっと抱いた。

 猿川にも領内にも平和が戻った。
蓮華は祖母と一緒に裏の畑で何やら植えている。
弥生も一緒だ。
春には収穫できるという。
蓮華たちの笑い声が聞こえる書斎に父と山崎がいる。

山崎は言う。
「蓮華様は何といいますか『人間への慈愛』をお持ちです。あれは生来のものにございましょう。
こちらに代々お仕えさせていただき、すでに百五十年を越えております。
この先も追い払われぬかぎりお世話になるつもりにございます。
なにとぞよろしくお願い申し上げます」
「うん、わしも頼む」

と言いながら父は思った。
( 蓮華のやつ、この先どこまでいくのか、親ながら先が恐ろしい娘じゃわ、女房かオレか、オレに似たに違いない ♪ )
















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