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小さな願い

5/15

美女たちと竹島へ。

名古屋港水族館以外の水族館に行った事がない。竹島水族館の距離感が居心地が良かった。

5/16


神奈川へ。
めずらしく撮ってもらう方。長い付き合いの友人に撮ってもらうのは良い。知らない土地に来たが、地元の名古屋で遊んでいるような心持ちだった。

5/17

柚木麻子さん「嘆きの美女」を何度目かの読了。ケバブを食べたくなる。大須に行くことになったのでお昼ごはんに食べる。
最近何を食べても口の周りが汚れる。特にひどいのはアイスだ。

そういえばハットグも柚木麻子さんのエッセイに登場していた。食べたことがないので食べてみる。
食べ歩きは得意ではないけれど、みんな歩きながら食べているのでやってみた。口の周りはケチャップとマスタードだらけになるし粉砂糖はぼろぼろこぼれる。でもそれが良かった。
私は座って食べる方が好きだが、こういう楽しみ方もあると知る。

5/21
永遠嬢様の交流会へ。
友達100人作る!と意気込んでいたが、妙に怖気付いてしまい、友達の影でコソコソしていた。

生花緊縛ショーにて花瓶になる。
ショー中に永遠嬢様と目が合い、思わず「かわいい」と呟く。

5/22〜25

5/26


毎日のように美しいお嬢さんたちを撮っていた。家に帰るとすかさずパソコンを開いて作業をした。
逆にスマホはあまり見なかった。スマホから溢れてくる情報量が多くて、手に持つのも疲れてしまう。仕事の連絡をするだけでいっぱいいっぱいだった。

美しいお嬢さんやおにいさんたちを撮れるなんて幸せだ。これが当たり前な事のはずがない。求めてもらえるのも嬉しい。みんなの役に立てていれるといいな。仕事が大変だったとしても、でもいい写真だなと思ってもらいたい。

時間があれば本を開いた。
柚木麻子さんの新作「オールノット」を読んだ。あたたかく包み込んで居心地よく過ごさせてくれるだけじゃない、柚木さんの作品が好きだ。寄り添ってくれたと思うと突き放してくる。考える余白も多い。

お金をたくさん稼いだり、偉業を成し遂げるより、自分を慈しむことが出来る方が素晴らしいと思える。余裕がある時だけ人にも優しくしよう。

5/27


部屋中に物が溢れている気がする。自分1人に対しての物が多すぎる。
嫌になり、使わない物を捨てたり、メルカリに出品する。大切に飾っていたかったお花は枯れてしまった。
何も欲しくないのに、生きていくために必要な物がたくさんある。純粋に欲しくてたまらない物は本当にあるのだろうか。
目を閉じてみても物からの圧を感じる。

物からの圧だとか欲しいものリストに入っている些細な物について考えるのが面倒くさくなる。外に出て、喫茶店で作業をする。雑音やコーヒーの香りの中に私のどうでもいい思考が混ざり合っていくのが心地よかった。

なんとかかんとか雑念をやり過ごし、作業もひと段落ついたので、寝転がってみる。
太陽が落ちて部屋が暗くなっていく。この時間が一番好きだ。毎日お祭り騒ぎのように暮らしている。孤独で内省的な時間が無いと自分を手放してしまうようでつらい。

実家に住んでいた頃、私の自室には小さい窓があった。窓に寄せるようにベッドを置いて、そこでも同じように寝転がった過ごしていた。学校から帰ってくると家には誰もいない。一人で静かに横になっていると落ち着いた。本を読んだり日記を書くこともあったが、たいていは何もしなかった。窓から差し込む光が弱くぼんやりしていくのをただ見ていた。

そのうちに家族が帰ってきて、家の中は賑やかになる。部屋が完全に真っ暗になる直前に夕食が出来たと呼ばれる。私はその時から天井についている照明を嫌っていたので、自室では出来る限り灯りを点けずに暮らしていた。読書灯は点けても構わないが、夕暮れから夕闇に移行するかすかな光の方が私には価値があると思えた。
居間は煌々と明るくて、テレビなんかが付いており、家族が全員居た。やはりその頃からがちゃがちゃした場所が嫌いだったので居間の騒々しさには辟易したが、みんなのことが好きなので一緒に過ごすのは楽しかった。
夕食を食べ終えてお風呂に入り、自室に戻ると読書灯をつけて過ごした。朝まで付けっぱなしにして眠った。薄闇は好きだが、完成な暗闇は怖い。一度眠ったら途中起きることはほとんど無いが、寝付くまでかなり時間がかかる。これも今も変わらない。眠たくなるまで本を読んだり、灯りを見て過ごした。
眠りにつく直前「このまま死んでしまいますように」と願った。この習慣も、今でも変わらず続けている。

生活の合間に開いていた桐野夏生さんの「日没」を読み終わる。
他の作品より、熱源が深いところにあるように思えた。
読後に人の感想や考察を読むのはやめておこう。想像力が死んだら終わりだ。


どうして正しく生きられなかったのかと後悔する。あの時ああしていれば、という事柄が次から次へと溢れ出てくる。間違った事しかしてこなかった。もしかしたら今から修復出来る事もあるかもしれない。
これからは間違える事なく正しく生きていけるかと問われたら、それは無理ですと答える。
正しく生きたい、でも正しく生きられない自分を許したい。自分に願いをかけたい。
それは希望のようなものだと思う。

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