季語「かえりばな」についての一考察

夏井いつきの一句一遊 の兼題「かえりばな」の放送が終わった。優秀句に選ばれた句はどれも素晴らしい句だった。
 夏井いつき組長のブログでも紹介していただいたが、同音の「帰り花」「返り花」「かえり花」について考えたことがあった。せっかくなので、その推敲を留めておきたいと思う。

動機 

考え調べた動機は、「夏井いつきの一句一遊」がラジオ放送のため、その文字の違いによる作品への影響がわからないなと思ったことだった。兼題を考え実作する中で、同音のそれらがどう違うのか、それをとらえなくてはならないと思ったことが始まりだった。

 帰と返の字義について

この二字の違いを字義について知ることから始めた。
出典は角川書店の新字源(昭和43年初版)に依った。

①     帰宅の「帰」の字義
 旧字は歸で、もと、意味の符号帚(婦)と音の符号・形声の𠂤(ツイ、タイ)→(クヰ)→(キ)とから成りたつ。形声の𠂤には「ついて行く」の意味(追)も添加されていた。
意符と形声符を合わせることで、女がむこについて行く、「とつぐ」を意味し、転じて「かえる」の意を表した。

  意味
   1      とつぐ よめいりする
   2      寄る 身を寄せる
   3      なつく 服従する
   4      くみする 味方する
   5      あつまる おさまる 所有物となる
   6      まかせる
   7      白状する
   8      おくりつける
   9      かえる もともとのばしょにもどる(かえる)
     9.1    もどる ひきかえす
     9.2    物がもどる
     9.3    位にもどる
   10    かえす
   11    おもむく ゆく
   12    おわる(終わる)
   13    まとめる
   14    死ぬ
   15    落ち着くところ 死

 ②  返却の「返」の字義
 旧字は返󠄁。辵(進んだり止まったりする)と、かえす意と音とを示す反とから成り、もと来た道をもどる、ひいて、もとにもどす意を表わす

  意味
   1  かえる
    イ、もとの道をもどる ひきかえ
    ロ、もとの状態にかえる
    ハ、去る
   2  かえす もとへもどす
   3  しりぞく しりぞける
   4        たび(度)回数
 国内で発達した義として
   1 かえる
    イ、反対になる
    ロ、ほりかえす たがやす
   2 かえし
    イ、返事
    ロ、かえし歌の略
    ハ、つり銭

       意味の違いが明確になってきた。

 季語「かえりばな」の歳時記による定義・解説

 ① 1983年刊の講談社版日本大歳時記(座右版)
 主季語の表記は「帰り花」
 「返り花」の傍題はなし。
「桜・桃・梨・山吹・躑躅などの花が、十一月ごろの小春日和に、時ならぬ花を咲かせることがある。これを帰り咲・狂い咲・二度咲と言う。忘れ花・狂い花とも言う。和歌・連歌には詠題としてはないが、俳諧に到って盛んに作られ出した。元禄、天明の俳人たちは、とりわけこの現象に興趣をもたしたようだ」(解説者、山本健吉)

      あれ?「返り花」がない?

 ② 講談社版の2008年新日本大歳時記(愛蔵版)
 主季語の表記はおなじく「帰り花」
 返り花の傍題あり
「初冬、小春日和のようなときに、桜や躑躅などが時節外れの花を咲かせていることを見かけることがある。梨、桃、杏、山吹、藤、菖蒲(あやめ)なども帰り咲く。「忘れ花」「狂い花」などともいうが、微妙なニュアンスの違いがあって、同じ花のことながら、句に詠むときは使い分けたいところである。(中略)時節はずれの花であり、寒い日にははかなげで、どことなく寂しい趣である。だいたいがぽつぽつと数少ないので、花の盛りの頃と比べると一層さびしげである。帰り花の句はつねに背後に盛りの趣があって、特別に心ひかれるのであろう。」(解説者、鍵和田秞子)

      おぉ、傍題「返り花」がある。主季語は「帰り花」で「返り花」は傍題だったのだな

 ③ 角川書店、2019年刊合本俳句歳時記第5版
 主季語の表記は「帰り花」
 傍題で「返り花」を認めている。
「小春日和に誘われて咲く季節外れの花のこと。俳句では桜をさす場合が多いが、山吹・躑躅など、ほかの花についてもいう。」(解説者、不明)


 季語の表面上の意味は十分にわかった。
鍵和田先生が後半部分で解説されている通り、背後に花の盛りのイメージがあり、初冬の寒さのなかの寂しさが漂っていることも主意としてあることも本意の一部であることもわかった。
僕の感覚では、初冬のうす寒さの中であるからこそ、花に対する希望やいのちの力強さもあるのではないかと思ったりもした。

そして、「帰り花」があくまでも主季語であり、同音の派生として「返り花」が時間的変遷の中で生れてきたことも分かった。 

「帰り花」と「返り花」の違い 

さて、本題の「帰り花」と「返り花」の違いを考察してみよう。 

帰り花
 「帰る」の字義が、現在を起点として将来へ向かう「行く」、また、帰宅・帰依・帰属という言葉に表れているように、現在の状態から変わって本来あるべき場所にかわることを背後に隠している。
となれば、「帰り花」には「咲いてこそ花」という「あるべき姿」になっているということを示すのではないかと思う。

時系字義は、将来未来へと意識が向く。

それらが相互作用をなし、「向寒」が字底背景に大きく響く景色にした、「本来あるべき姿」である花姿を愛でる心理が強いようにも思える。
僕が感じていた前向きな明るい印象もこの心理が働いていたのだなと思う。

 返り花
「返る」の字義は「もとの状態にもどる」。
このため、「過去」への意識が強い。

花咲く季節とその万朶に咲き乱れる花姿が背後で大きく影響をなし、かえってその影響のため、眼前の花を見ている観察者には初冬の寒さが心理的にも大きく覆っているのではないかと思われる。鍵和田先生が解説されていたことがここによく表れている。

おなじ「かえり花」でも、「帰り花」は意識のベクトルは花姿に寄り、「返り花」は背景の寒さに向いているともいえる。

実作者として

 季語そのものの本字の一字の違いでニュアンスが違うことをわかったうえで、実作の中でそれとどう向き合っていくかという問題がある。
それを考察するうえで、はなはだ僭越至極だが、その違いを先師の句で考察してみようと思う。

帰り花月日はいつもうしろにて   田中裕明「先生からの手紙」

 音は全く同じだが、仮に、表記を「返り花」にしてみた「返り花月日はいつもうしろにて」の場合、中七と座五を補強する形で過去を振り返っている印象が強くはならないだろうか。
季語が説明的になっているともいえるだろう。

しかし、作者の時間遷移の意識は未来に向いていたものと推測される。
後ろを省みつつ、「本来あるべき姿」へと変わっていこうする意識あり、それを花姿に受け取ったと解釈できる。それが、「帰」の一字にあったのではないだろうか。
花姿がより鮮明に明確に浮かび上がってはこないだろうか。 

「かえり」がひらがなで表記されている場合、作者の心理的背景吐露が薄まることにより、句の解釈はより自由に読者に委ねられる。その場合、句を受け取る読者の状況によって印象は千変万化するだろう。 

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 解釈を書きながら、我田引水な解釈だな…と思う。
字義とその本意にこだわりすぎなのではないのであろうかとも思う。そんな迷いもある。
しかし、一字違いでこれほども違いがあるのだと見識の狭量を恐れずに思う。

個人的見解に過ぎず、広汎な季語の世界に狭量な見解と断定を持ち込むこととなった。
が、同じ音の「帰り」「返り」「かえり」で表せる内容が違うことを今回いろいろ調べるなかで気が付くことが多かった。そして、言語の考証を過去にさかのぼることから始める科学的な検証をすることは!と?の連続で楽しいものだった。

今回は同音であることにはてな!?と思ったことからいろいろ調べて、その違いに気が付くことができたが、こうやって、季語ひとつひとつに傍題も含めてむきあっていきたいものだ。

 まとまりのない個人的見解をお読みいただきありがとうございました。

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