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適応障害のお話し2(元開発研究員、中国語発音講師eico、休職から復帰まで)


「適応障害」に興味を持っていただきありがとうございます。わたしは社会人3年目のときに適応障害になりました。克服し、別の世界で生きています。
今回は休職期間のお話です。前回、適応障害になるまではこちらをご覧ください。

休職期間のスタート

症状はうつ病の診断基準を満たすほどではありませんでしたが、開発研究業務、特に実験がストレスの原因である適応障害と診断されました。お医者さんは入眠剤と精神を落ち着ける薬、2種類を処方してくれました。
原則は入眠剤1錠。眠れないときは増やしてよい。しんどい時は精神を落ち着ける薬も併用OK。まず1か月休んで調子をみましょう、ということでした。

わたしはパニックになりました。
「すみません、すぐに仕事に戻らないといけないんです」「せめて休む期間を1週間にできませんか?」「1か月たったら戻れるんですか?」

お医者さんは冷静に言いました。「あなたね、今、実験の仕事ができていないんでしょ。それに眠れていない。最低1か月は休む必要があるのですよ。そのあとのことはその時考えればよいので、必ず休みなさいね

帰宅し、恐る恐る、会社に電話して、休職を伝えました。上司の対応は紳士的でした。「はい、わかりました。仕事のことは心配しなくてよいので、休んでください」。拍子抜けしました。

休職中

1~2週間目

休職期間中に寮から新居に引越しました。楽しいはずの新婚生活は闘病生活の始まりでした。最初は「ひとりじゃなくてよかった」と思いましたが、夫は朝7時には出かけ、夜20時過ぎまで帰ってきません。一通り、家事が終わると手持ち無沙汰です。休んでいることに罪悪感を感じ、仕事の同僚に連絡をしてみましたが、「仕事は大丈夫だから休んでね」という上司と同じメッセージが返ってきました。知らない土地、知り合いもゼロ。一人、アパートの部屋にこもって、壁を見て泣いていました。

3~4週間目

引っ越し荷物の整理も終わってしまいました。会社に連絡してもみんな同じ「仕事は大丈夫だから休んでください」のメッセージ。宙ぶらりんの状態で、休むことに罪悪感を覚えながら、何もできない。自分の存在価値って!?この先どうすればいいんだろう。不安でいっぱいでした。

社内の英会話サークルの先生が「最近レッスンに来ないけど、どうしたの?」とメールをくれました。休職期間にプライベートで出かけることに罪悪感がありましたが、「英会話サークルのメンバーにはあなたと会ったとは言わないから」と言ってくれたので、会いに行きました。通院以外で電車に乗るのは初めてでした。
先生は「会社に戻ったら、いつでもレッスンに参加していいからね」「レッスンじゃなくても英語で会話しましょう」「大変だったでしょう」と言ってくれました。全部英語だったけど、相手が自分のことを心配してくれているのが伝わってきました。

かかりつけの精神科のお医者さんは、少しずつ外出できるようになったこと、人に会えるようになったことを喜んでくれました。順調に回復、入眠剤で寝れるようになったころ、復職OKの許可が出ました。
上司に連絡したところ、「はい、わかりました。月曜日から来てくださいね」とあっさりOKでした。

適応障害でできなかったことと対策

症状は人によって異なるので、あくまでわたしの場合の話ですが、このころはけっこういろいろなことができなくなりました。

できなかったこと

大好きだった読書ができなくなりました。字を見ると、涙があふれてくるからです。

画像も音もダメになり、テレビも映画も刺激的過ぎて無理でした。

身体能力が落ちました。すぐ疲れるのです。以前はスポーツジムに通って汗を流していたのに、何もする気が起きず、ぼーっとしていました。

計算能力も落ち、紙幣や硬貨を数えるのが遅くなりました。スーパーのレジが怖くなりました。

判断能力が落ちました。通院の日は、手帳にもカレンダーにも書いていたのに、違う日に病院まで行ってしまい、通院の日じゃないことに気が付いて引き返すこともありました。

注意力が散漫になりました。道を歩いていても、後ろから自転車が近づいていても気づかない。家族が腕を引っ張ってくれて間一髪、助かったこともありました。

記憶力が落ちました。どこに、何がしまってあったか思い出せなくなりました。

対策

「何かしよう」「しなければ」と思うのをやめました。
スーパーやお店はできるだけ空いている時間に行く。混んでたら買い物せずに帰る。買わなくても、スーパーに行けただけでがんばったと思うようにしました。

硬貨を数えなくていいように、お札で出してお釣りをもらうようにしました。

1日1つ以上の予定を入れないようにしました。

英語力が落ちているのを感じましたが、もうどうしようもないと諦めました。

注意力が散漫なので、歩道の端っこをゆっくり歩くようにしました。

探し物が見つからないので、鞄を一つ決め、持ち物は全部そこに放り込みました。

休職復帰後

復帰直後の仕事

同僚たちは何もなかったように受け止めてくれました。リハビリとして「研究所に行って、席に座って、ときおり掃除して、自宅に戻る」を繰り返しました。
なにもしてない無力感でいっぱいでした。

ある日、先輩が見るに見かねてルーチンワークの実験の仕事をくれました。久しぶりの実験。手が震えましたが、時間をかけたら、できるにはできました。先輩はデータに問題がないと確かめてくれました。ちょっと自信になりました。

本当に先輩たちは本当にいい人ばかり。こんなに環境がいいのに、適応障害になってしまった自分を情けなく思い、また凹みました。

わたしは実験への適応障害を期に、ルーチンワークをこなす職種か、事務処理を行う職種に転換を願い出ました。
しかし、上司は理解してくれませんでした。
「院卒なのにもったいない」「病気から回復すれば研究できる能力があるはずだ」「実験も少しずつできるようになっているではないか。期待している」と励ましてくれ、進歩をほめてすらくれました。が、こころは晴れませんでした。

復帰まもなくして商品リニューアルの仕事が任されました。販売不振のためリニューアルされるという、開発研究員としてはあまり面白くないとされている仕事。わたしは通常の倍以上の時間をかけて、ようやく完成することができたのでした。

異動を考え始める

わたしは共働き前提で結婚した手前、なんとしてでも仕事を続けないといけません。でも、こんな状態では転職なんてとんでもない。拾ってくれる企業なんてない、そう思いました。

そこで社内で知っている方たちに、わらをもすがる思いでメールを送りました。
「適応障害で研究所にいられない。でも、ここには自分ができる仕事がないし、役割も変えてもらえない。どうしてもここを出たい」

しばらくたって、新入社員研修の時にお世話になった国際部門のかたがメールをくれました。
「ウチ、万年人手不足でなんだけど、来る?パンクしかけてる人もいるくらい忙しいんだよね〜。定年間際のかたもいるから若手なら大歓迎。上司に聞いてみるわ」

異動が決まる

国際部門は急激に拡大しており、中途採用社員で何とか乗り切っている状態でした。直属の上司との面談で「国際部門に異動したい」と伝えました。
上司はTOEICのスコアを見て、国際部門への異動に理解を示してくれました。次は人事部。「どうしても研究員を続けられないのか」と何度も何度も確かめられました。
「研究員から国際部門への配置転換はできるが、国際部門から研究員への配置転換は原則できない。研究員の採用と育成にどれだけコストがかかっているのかわかっているのか。個人のわがままは困るのだ」
「国際部門で何ができるかわかっているのか。ちょっとぐらい英語ができたぐらいで務まらない。再度体を壊されても困る。本当に国際ビジネスにかかわりたいなら、うちの会社はさておき、派遣などで確かめてもいいのではないか」など。暗に退職をにおわせる発言でした。
「結婚のせいではないか」「妊娠して体調が悪いだけではないか」「引っ越しのせいではないか」と適応障害の理由をプライベートのせいにしようとしている発言もありました。

もう、退職しかないか…と思っていたころ、新入社員のとき、わたしの採用を決めた役員の方の鶴の一声で、国際部門への異動が決まった、と連絡がありました。

そこからはもうバタバタです。ひたすら、前だけを見て進みました。

研究所最後の日、門を出ようとしたとき、一人の事務員のかたが声をかけてくれました。

「あなた、異動するんだって?よかったわねえ。毎日辛そうだったもの。ほら、健康診断の日、倒れたじゃない。実はね、ずっと気になっていたのよ。元気でね!」

国際部門への異動後

実験から解放されたわたしは、仕事の前に「失敗するかもしれない」という不安な感覚は味わうことがなくなりました。適度に力が抜けた国際部門のメンバーたちは、自分の好き勝手に仕事を進めていました。誰かが失敗したら、みんなで原因を考え、解決し、さっさと自分の仕事に戻っていきました。同じ会社で、こんなに仕事の進め方が違うのかとも思いました。

できるかぎり研究所と関わらない業務を担当させてもらいましたが、同じ社内ですから、研究所のメンバーと顔を合わす機会はありました。できるかぎり逃げました。研究所のメンバーもどう接してよいかわからないようだったので、逃げることで、お互い距離を保つことができてよかったと思います(笑)。

次回は、適応障害の原因を分析し、過去の自分に向けたメッセージ(闘病前、闘病中、その後)と、お楽しみに!


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