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ラウドネスノーマライゼーションの問題点

YouTubeやApple Music等、音楽をストリーミング配信するプラットフォームにおいてラウドネスノーマライゼーション(以下LN)が導入されて以来10年近くが経とうとしていますが、時間が経つことでいくつか新たなトレンドの変化、問題点、課題も浮き彫りになっています。

本記事ではLNがもたらした音楽文化の変化や、その結果失われた/損なわれたものについて言及していきます。

ラウドネスとは何か、LNとは何かについては下記の記事をご参照ください。


やっぱり起こる音圧戦争

CDの時代に問題になった音圧戦争ですが、形を変えてLNの世界でも起こっています。

それが新しい音楽のトレンドにも繋がっているので文化の一つだろと言われたらそれはそうなのですが、そもそもLNが導入された目的が過剰な音圧戦争に伴う視聴体験の悪化への対応と音楽家が音圧に囚われずよりよい録音物を作ることに集中できるようにすることだったと考えると、これは望まれていない、少なくとも意図はされていない現象だと思います。

ラウドネスの上がりにくい編曲が主流に

具体的に起きた変化を挙げると、まずラウドネスの数値が上がりにくい編曲が増えたことが挙げられます。

LNはIntegratedの数値を用いて行われるため、大サビ等の音を瞬間的に大きくしたい場合ラウドネスの低い、でもゲートの下限に引っかからないくらいのセクションを曲の中に沢山設ければよいことになります。

昔と比べてイントロやAメロ、Bメロの楽器がやけに少なかったりLo-Fiだったり声を抑えて歌う曲が増えたと感じることはないでしょうか? それらは音楽的な抑揚をつける目的もある一方で、Integratedのラウドネス値を上げることなくサビの音量を少しでも大きくする目的があります。

結果的に抑揚がついてより興味深い音楽になっていれば良いことなのですが、あまり極端にやるとサビだけ従来の通りリミッターに激しく引っかかった平坦な音になってしまうため加減が必要です。

ツールでラウドネスハック

LNは自動的に行われますし、Integratedのラウドネスも機械的に算出されます。1曲1曲誰かが耳で聴いて「この曲は何dB下げよう」と判断しているわけではありません。

ということは、信号処理の力でラウドネスの数値を変えずに人間が聴いた時の音量の印象だけ大きくする方法を探す人たちが当然出てきます。そういったツールを使うと確かにより大きな音になったように聞こえはしますが、ミックスの印象がかなり変わってしまいます。

じゃあ使わなければいいよねという話なのですが、CDの音圧戦争の時代に音に悪影響が出てもいいから少しでも大きく聞こえるツール(マキシマイザー)を使うことに躊躇が無かった人はこれらのラウドネスハックツールに手を出すことにも同様に躊躇が無いことが予想されます。

結局LNというルールの中で少しでも大きな音量感を実現するために作編曲やミックスマスタリングでの音楽的な表現とは無関係のところで試行錯誤する余地が残されているのです。

存在すべき音量差の消失

ラウドネスの数値を揃えることが好ましくない場面においても揃ってしまうことがLNのもう一つの問題点です。

例えば人間の囁きと怒声を比較した時、後者のほうが大きく聞こえて然るべきですよね。しかしLNの世界ではこの2つの音が同じ音量感になるよう揃えられてしまいます。

もし囁きと怒声が同じ音量で再生されたら、恐らく多くの人は囁きの方が大きいと感じるはずです。本来小さく聞こえるべきものが大きくなっているからです。

他にも楽器の少ない音楽と多い音楽を比べてみましょう。どちらにも同様にボーカルが入っていたと仮定して、同程度のラウドネス値を瞬間的に示したとすると、ボーカル自体の音量は前者の方が大きくなるはずです。であれば、声がより大きく聞こえる曲の方が大きな音だと認識しやすいと言えるかもしれません。

柔らかい演奏、弱奏、抑えた声で奏でられるシンプルな構成の音楽が例えばメタルやEDMといった極めてラウドな音楽の盛り上がったセクションと同じ音量で再生された時、前者の方が非常に大きな音であるという印象を与えることに成功するでしょう。

つまり、様々なスタイルの音楽を全て同じ基準でノーマライズした結果、かえってジャンルやスタイル間のアンバランスが生じているのです。

現状これを回避する方法は「小さく聴こえてしかるべき音楽をリリースする人がLNの基準よりも音の小さいマスターを作って配信すること」だけです。つまり、人間の良心とデジタルオーディオへのリテラシーに依存しています。

理解の不十分な浸透とコミュニケーション不全

ここまでの文章は敢えてラウドネスやLNの意義に対する理解がちゃんとにある方が読むことを前提に書いてきました。

しかし、人の理解には当然濃淡がありますし理解の深さやモラルとその人の発信力、影響力がリンクしているとは限りません。

本来であれば皆が等しく正しく意義を理解してより良い音楽を作ることに集中出来る世の中になればそれが一番なのですが、特にTwitter(現X)のような場では自分より理解度の低い人間の発信に対して寛容になりづらくなっています。SNSが不必要かつ過剰な攻撃性を誘発してくるため、コミュニケーションを以てお互いのバックグラウンドを理解し合うことが難しいです。

LNは音楽家もリスナーもそれについて意識しなくても、理解しなくても等しく恩恵を受けられるはずのものだったのですが、中途半端な理解や誤解が争いを生んでいると言えなくもありません。

誤解が争いを生むのはLNに限った話ではないので、これはLNではなくモラルや倫理観、道徳の話かもしれませんね。近いもので言うと生成AIの是非についても同様の争いが生まれているように感じます。

結局CDマスターを配信に使う

LNの基準値を意識しながらマスターを作る場合と従前の音圧戦争基準(CD基準)でマスターを作る場合では最大で10dB近くも音量差が生じることがあります。

かといって、CD用のマスターと配信用のマスターを両方作成するとマスタリングのコストが2倍になってしまいますし、このマスタリング費用の差の分以上に売上が増える未来もなかなか想像しづらいです。

そのため配信用マスターとCD用マスターが共通になってしまうケースはままあることでしょう。そして、そんな時に配信基準のレベルにする人は未だ少数派なように思います。(あくまで私の感覚ですが)

これには、いまだ「リミッターを通すと音が良くなる」という認識の人が多くいることも関係していそうです。実際にリミッターで様々な情報を削り落とすことでミキシングの問題がある程度隠されることはあるかもしれませんが、それは問題が隠されただけで音が良くなったわけではありません。

LNが強制ではない

LNによってプログラムレベルは強制的に一定の値に揃えられますが、LNを行うかどうかは強制ではないプラットフォームがあります。

具体的には、Apple MusicやSpotifyではLNを行わず元のマスターのままの音量で再生することをユーザー側で選べてしまうのです。

ゆえに「音圧マシマシで配信したのでリスナーはLNのチェックを外して聴いてください」というスタンスのアーティストがまだまだ多いように思います。中にはそうするよう積極的にリスナーに促す人もいます。

LNの意義を広く理解してもらうためにはLNが迂回できない、回避出来ない仕組みになる必要があるように思います。

まとめ

本記事の要旨は下記の6点です。

  • LNのルール裏をかくのは良心、モラルと相談しながらほどほどに

  • LNよりも良い仕組みが見つかるといいですね

  • 皆の理解度を高めていくことが大事

  • でも他人の誤解を公衆の面前で咎めて恥をかかせたり石を投げるのは建設的とは言えない

  • CDと配信のマスターを作り分けることは現実的に難しい

  • LNを有効にするかユーザーが選べることが問題をややこしくしている

そして結局音楽家はどうすればいいのかという結論については、アーティストが届けたい音でマスターを作るのが一番だと個人的に思います。

アーティストが有機的でゆとりのあるダイナミックな音を好むのであればそういうマスターを作ればいいし、アーティストがリミッターで張り付いた平坦で圧迫感のある音を好むのであればそういうマスターを作るべきです。そこに良い悪いはありません。アーティストが自由に正解を定義出来るのです。(と同時に責任も負います)

たとえ配信時にプラットフォーム側で音量を下げられることになろうとも、音量が変わるだけで音は変わりません。アーティストのビジョンは無事にリスナーの元に届きます。

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