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東大学士入学体験記

 会社を辞めて東京大学の農学部に入学した。簡潔に言えば、人生は一回しかないので、自分のやりたいことをやろうと思ったからだ。上の記事に詳細を書いたのでもしよければそちらも読んでほしい。

 海について学びたいと漠然と考えた俺は、仕事の傍ら大学について調べていた。大学院の入試を受けるという手もあるが、そもそも完全に門外漢で知識もない自分が院試を受けてもまず受からないだろうし、何かの間違いで入ってしまっても困ると思ったので、その線は切っていた。
 すると、東大は学士入学なる制度を採用していることがわかった。学士入学とは、大学を卒業して学士を取得したものが対象の編入学試験のことだ。編入学なので三年生から入学でき、二年間で卒業できる。これは大きなメリットだった。まず、大学受験で高校生たちと戦うのは厳しい。彼らのエネルギーは計り知れない。それから、正直、経済的にも、人生設計的にも、四年間大学に通い直すというのは避けたいと思っていた。そのあと大学院にいくかもしれないことを考えると、できるショートカットはしておきたい。
 この制度には「他学士入学」と「本学士入学」があり、前者は他大学の卒業者を対象とし、後者は東大の卒業者を対象としている。俺が検討している農学部は本学士入学のみ、つまり東大の卒業者のみ受け入れているようだ。運が良いことに俺は東大の文学部を卒業しているので、本学士ということになる。尚、東大で他学士入学を認めているのは文学部と法学部のみである。

 学士入学には試験がある。募集人数は「若干名」。2023年の実績を見ると、受験者4人中、合格者は3人。かなり分のいい勝負である。試験科目は、小論文と面接。
 俺はここでしばし考えることになる。小論文と面接?まあ、面接はわかるとして、小論文って何を聞かれる?インターネットで検索をしても、他学士入学の対策や体験記はヒットするが、本学士入学を受けたという人の話は出てこない。やはり東大に二回入りたい人は少ないのだろう。その時点で7月。試験は翌年の2月。俺にできることはとにかく勉強することである。何を?自分の思う対策を。

 俺はこう考えた。まずは高校の生物を勉強することだろう。俺は高校時代に生物基礎しかやってないうえに全て忘れた(何しろ七年前である)。なのでメルカリで高校の生物の教科書を購入した。ありがとう、知らない高校生。それから、俺が希望する水圏生物科学専修のホームページに並んでいた関連書籍の中から『水圏生物科学入門』と『魚類生理学入門』を購入した。これらを読んでいる限り数学の微積分と有機化学くらいは復習したほうが良いと感じたので実家から数学の『青チャート』(奇跡的に残っていた!懐かしいですね)を、メルカリから化学の教科書を入手した。
 余談だが、ここで初めて俺は「微積分」という操作が何をやっているのか理解した。高校時代は公式に則って計算しているだけだった。つまり微分は変化の速度を、積分は合計を出していると…当たり前だと思われるだろうが、それもよく理解していなかったのだ。
 さて、生物を一通り理解し、『水圏生物科学入門』を読み終えると一度目はよくわからなかった『魚類生理学入門』も理解できるようになっていた。勉強はこれが楽しい。色々前提知識を頭に入れてから帰ってくると、やっと文章が俺と会話してくれる。ちゃんと手続きを踏んで発行された文章がわかりにくいと感じたとき、大体読み手のレベルが不足している。結局俺はこの二冊に『魚類生態学の基礎』を加えた三冊を、三種の神器としたこれから何周も読むことになる。

 勉強を始めて二カ月ほど経ったとき、俺は「この勉強法で正しいのか?」という不安と戦っていた。これまで何かの試験に向かって勉強したことは何度もあるが、試験内容も対策方法もまったく不明な状態での勝負は初めてだった。これから勉強したい、と考えている人間に専門的なことは聞かないだろうとは思っていたが、それなら小論文でいったい何を問われるのか見当もつかなかった。
 三年間の短い社会人経験によって身についたのは、「自分で考えて分からなかったら分かりそうな人に問い合わせる」ということだった。東大農学部のホームページに行くと、本学士入学を担当している教授の連絡先が載っていたのでメールしてみた。「現在社会人で、学士入学を検討しているが、元々文系なので知識もない。今は高校生物、化学と『水圏生物科学入門』…等の書籍を読んで勉強しているが、小論文と面接に際してどんな勉強をするべきか可能なら教えてください」という不躾な内容である。三日後返信が来た。「試験内容については教えられないが、モチベーションのために入学したらどんな講義があるかのカリキュラムを送ります。頑張ってください」という内容だった。答えが得られるとは思っていなかったが、何となく俺にも門戸が開かれている匂いを感じ取ることはできた。(要するに、返信が優しくて嬉しかった)

 結局俺はそこから本をかたっぱしから読むことにした。「小論文」は、恐らくその場で提示された課題について考えを書けという形式のものだろうから、論点を広く頭に入れておくことが必要だと思ったからだ。分野に関する具体的な質問、つまり「この魚がこの状態になったときに放出されるホルモンについて述べよ」みたいなものは聞かれないんじゃないかな…多分…と考えて(信じて)いた。それよりはもっと広い質問、それこそ「海が直面している課題について」とか「人間と海の関わり方について」とかだろうな、と思ったので、海や生態系に関する一般書を読んだ。
 尚、受験二カ月前くらいに、東大図書館が「教員おすすめのブックリスト」というページをつくっていることに気が付いた。そこに水圏生物科学の教員推薦図書も十冊ほど載っていた。これにもっと早く気が付けば!と悔やんだが、とりあえずリストの上から読むことにした。

 要するに、俺の学士入学試験の対策は、最低限の基礎知識をつけてから、とにかくたくさん本を読むことだった。しかしやってみるとわかるが、試験対策として、しかも何が問われるか不明な状態で本を読むことは結構体力を使う。本番でそれを引き出せるように、できるだけ記憶しながら読むからだ。試験が終わった後、これからはただ楽しみのために本が読めるのだと思うと肩が軽くなった。
 本を読む中で、二つの課題意識が生まれた。日本の漁業における資源管理と、絶滅危惧種の資源としての利用の問題である。具体的には、日本の漁業管理方法として漁獲可能量が定められているがそれが実際にはまったく機能していないのでは?ということと、ウナギは絶滅危惧種で完全養殖もまだまだ成功していないのに、全国のスーパーでこんなに安く買えていいのか?ということだ(このあたりも今度詳しく書きたい)。特にこの二つについては現状と対策案まで説明できるように諸々の文献をあたって勉強した。
 それから、当然志望動機である。志望動機としてはこのNoteの冒頭に載せた記事に書いた通りなのだが、それをまとめるのは難しかった。弱点はストーリーが弱いことである。何か明確なきっかけがあるとか、実は実家が漁業をやっていてとか、昔から釣りが大好きでとかがあればよかったのだが。就活みたいで嫌になるが整理しておくに越したことはない。嘘はつきたくないし。結局「文系の調整役としてではなく、科学に直接触れたい。海について学びたいし、できれば保全にも貢献したい」と整理した。

 結果として対策が功を奏したのか試験には合格できた。今年の受験者は二人で合格者も二人、と出ていた。どうやら定年退職後の方が一人受験したらしいと風の噂で聞いた。
 受験本番のこととか、出願の時のこととか、会社に言ったときのこととか、書きたいことはまだまだある。書いたらまだ読んでもらえると嬉しいです。よろしくお願いします。


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