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ハッピー・パッシング・インディペンデンス【短編】

誕生日から2日後。

ひとしきり、終えた。この部屋を中心に動いていた自分は、今日でいなくなる。わたしの空間であると頑張って主張するため、壁や窓、ドアにまで貼り付けていた散文やポスター、カレンダー。積読本もすっかり消え去り、案外小さな段ボールにおさまっている。紙の本だから引っ越し業者に持ち出される衝撃で、折れるかもしれない。折れていい。折れたら折れたで、わたしの人生の中にある本だって自慢できるようになるから。

「しず、もう準備できたの?業者さん、来ちゃうわよ」

私が1度だって準備を怠ったことがあるか。旅行の時も、外食の時も、年末も年始も、私がいちばんに玄関先で準備を終えて待っていた。のろまだったのはいつだって、その他、家族の方だった。引っ越し業者がもうすぐ来るって言うが、あと30分ほどある。荷物を玄関まで運び終えても、10分は余るだろう。この家の中で、最も逆算に長けているのは私だ。
母への返事、さっきの声かけは母からだったのだが、とにかくそれへの返事はせずに、せっせと玄関まで段ボールを運ぶ。女子にも関わらず、引っ越し屋のアルバイトをしたことがあり、足腰と腕力には自信がある。全く見た目には出ない。インナーマッスルがインナーすぎるおかげだ。
リビングを通り過ぎる時に、母の心配そうな顔が視界の隅に一瞬映る。

「手伝う?重そうじゃない」
「いいよ、運ぶ順番とかもあるから」
「なによ、運ぶ順番って」
「重さとか大きさとか色々あるでしょ、並べやすいように順番に運ぶから」
「なに、もぉ」

理屈も何もない、感情だけがぐじゅぐじゅ湧き出ている母の言葉が、私はいつも嫌いだ。だが「嫌い」と面と向かって言ったことはない。彼女が傷つくだろうからだ。
家族が傷つけあうこと、これは結構良くないらしい。私はそのマナーを理解している。だから母を傷つけないよう、学生の頃から自分のことは自分でやるようにしていた。今だってそう。この作業から生まれ得るトラブルに、母を巻き込まないようにしている。しかし、そんな配慮は全く母に伝わっていないらしかった。
私はサービスする。

「心配しないで、すぐ終わるから」

笑顔。
母は、そんな私を見て、笑わない。
だから嫌いだ。


「しずちゃんさぁ、スマートだよね」

ソファに寝転がってミネラルウォーターを飲むわたしを見て、ショウタは言った。私も彼の方を見つつ、なんで、と返す。
虎ノ門の高層ホテルの一室、バカでかい窓をバックに、ショウタはワイシャツのボタンをしめている。ひょろりと縦に長く、髪型はウェイトがまぁまぁありそうなマッシュで、前髪の隙間からナイフみたいに鋭い目元が垣間見える。

「いや、俺が誘ったら全部予約してくれちゃってさ、しかもホテルのアメニティ全部把握してたり、マジで助かったけど、ちょっとエスコートしすぎじゃねって、ありがたいんだけどね」

なんだ、そんなことか。私は何を言われるか少し警戒したのに。

「全然、楽しく過ごしたかったし、色々調べたの」
「仕事できそうだなぁ、しずちゃん」
「普通だよ」

わたしは水を再び飲みつつ、テレビのリモコンに手を伸ばした。だから彼がどんな表情をしたのか知らない。彼はどうやらこちらに近付いてきたらしく、寝転がる私の足元あたり、ソファの狭い面積にゆっくり腰かけた。伸びているわたしの足には触れないよう、ぎりぎりのところに胴体を配置した彼が、なんだかおかしかった。わたしはテレビの方を見て、

「この映画、絶対面白くない」
「役者はよくない?」
「だから面白くなさそう」

朝の情報番組に映っていたのは、江戸時代の激動をコメディチックに描いた来月上映の映画、の告知。ワイプに映った北海道出身の個性派俳優が、レギュラー陣のイジりをかわしつつ、懸命に宣伝している。

「ほら、主演、この人なんでしょ。絶対面白いじゃん」
「映画として面白いかって、また別の話だよ。ショウタの言う面白いって、台詞が面白いってことでしょ」
「台詞面白かったら、映画って面白いけどなぁ」

ショウタはそう言うと、顎のあたりを何度もつまんで、黒板に書かれた算数の問題に悩む小学生みたいな顔をした。それを解くことが、自分の人生にとって最も重要であると、信じて止まない顔。
わたしは、ショウタのように生きられたら、もう少し楽しいかもしれないと思った。ずっとそう思っているからこうやって何度も遊んでいるのだけれど、彼を見るたび話すたび、彼のように生きる事はできないと思い知るだけだった。
だから、わたしはミネラルウォーターを飲み干し、伸ばしきった脚を折り畳んで、仕事行ってくるねとショウタの頭をポンポン叩き、彼との1泊2日に何の問題もなかったと安心した顔を作って、部屋から出ていくのだった。


「人のきもいところは群れることであると思う。だけど人が生きるうえでは群れることをしなきゃ仕方ないと思うんですよね」
「なるほど」
「群れるっていうことが、協力と言い換えられるときもあるし、結託とかに言い換えられて排除という言葉に結び付けられることもある。いい側面だけ切り取れたら素敵ですけど、それでも私たちはどこまでも、きもいままなんですよね」

そこまで言って、正面にいる女性は額に手を当て、顔をしかめた。体調が悪そうだ。

「大丈夫ですか?」
「あ、全然。薬飲んでも?」
「大丈夫です、お構いなく」

この女性作家にインタビューするのは今日で2回目だ。
作家にインタビューする仕事はそこまで多くないが、彼女はジェンダーの問題や、それに止まらない人間関係全般の問題に切り込んでいくスタイルだから、うちと相性がいい。
彼女の作品自体、そこまで好きではないが。だって自分事と思い辛いから。
彼女の作品に入り込めない自分が、ソーシャル・ビジネス専門のメディアでインタビュアーなんてしていていいのだろうか。とか、無駄なことを考える余裕はない。それくらい忙しかった。

薬を飲み終わり、わたしの方へ再び向き直る彼女は、人形のように美しい顔立ちをしている。そんな彼女から初回のインタビュー後に、いきなり失礼かもしれないですけどお肌綺麗ですね、とか言われた。私はそれを聞いて安心したのを思い出した。

「ごめんなさい、で、えっと…」
「人は群れると」
「あぁ、そうです」
「人は群れることでより良い未来に進むこともできるし、醜悪な結果を導き出しもするという話と理解したのですが」
「間違いないですね、まさに」
「じゃあ1人で生きていくことは、どうですか。最近だと女性の社会進出とかフリーランスとか、消極的なものでいうとベーシック・インカムとか、インディペンデントな生き方を肯定する流れができてきていると思うのですが」
「それは結構、思い込みだったり、強がりな気がしてしまいます、私の場合」
「思い込み、ですか」

わたしは、自分の中の何かが、ぐっと鷲掴みされるような感覚を覚えた。

「こんなこと言うの恥ずかしいんですけど、私、結構家では旦那にベタベタなんですよ。帰ったら荷物とかテキトーにその辺において、ソファーでリモートワークしてる旦那の横に行って、頭を擦りつけたりするんです」
「それは意外でした」

意外でもなんでもない。彼女の著書にはそんな主人公が出てくる。

「もうアラフォーの女がこんな感じでいいのだろうかとか思うんですけど、動物とか、ライオンの赤ちゃんとかがじゃれ合っている映像を見て、何の娯楽もない生物にとって、じゃれ合うことは最高に楽しいんだろうな、気持ちいんだろうなって思ったんです。ライオンの親も、ああやってじゃれ合いたいけど、じゃれ合う子供を守らなきゃいけないから、鋭い目で周囲を警戒してる。この国に住む私たちは、ある程度セキュリティがしっかりしている所に住んでさえいれば、じゃれ合うのが自然だと思うんです。私は執筆の習慣ができているから、仕事の時間になったら部屋に向かうんですけど、仕事していなかったら、じゃれ合いで1日の大半が終わるなって思います。社会にいる人々の、活動の、本当に根源的な動機は、誰かとじゃれ合う時間を得たいってことなんじゃないかな。形は違っても、結局はじゃれ合いへの欲求というか、それこそ群れる欲求からは逃げられない気がしているんです、って喋りすぎですよね、ごめんなさい」

彼女は私の表情を見た。
その日、肌が綺麗とは言われなかった。


都内にあるジビエ料理がメインで出されるバーで、わたしはイノシシ肉とチーズで構成されたパテを口に放り込み続けていた。弟と均等に分けて食べる、という発想はない。弟も全くそれで構わないという顔をして、グラスワインをぐいぐい飲んでいた。

「あんた、半年前に成人したばっかじゃん。そんなにワインいく?」
「俺、19から飲んでるよ」

悪びれる様子もないし、悪びれるほどのエピソードでもないのかもしれない。私はワインの美味しさが分からず、さっきから生ビールばかり。種類の豊富な肉もどんどん飲み込んでしまう。大衆居酒屋でもよかったかもしれない。わたしと来るなら。

「姉ちゃん、食事に関しては本当に適当だからな」
「一応、必要な栄養素は全部摂取してるつもり」
「栄養云々の前に食事を楽しもうよって、俺なんかは言っちゃう」
「そういう男、無理」
「世間は逆っぽいよ。いい店知ってると、いい男って見てくれるんだって」

見てくれるんだって、という口調から彼の達観ぶりが見て取れる。器用にペルソナを入れ替えつつ、キャンパスや飲み屋で巧みに生きているのだろう。この弟は私に似ているのか、どうなのか。

手に持ったフォークを右手の指で不安定に支えつつ、わたしは仄暗い店内を見渡す。カップル、カップル、カップル。男女、男女、男女。異性同士で来るのが定番みたいな店に、異性同士で行こうと計画を立てる2人の人間。こうやって言い表してみると、どうも間抜けだ。私は弟というカモフラージュによって、この場に潜入している気分になり、ひとつひとつの人間の塊を観察しだす。

正面にいる弟は、何にも構わず酒を飲み続ける。こんなに強かったか、いやそもそも彼と飲んだのは年末年始の集まりぐらいで、今日で2回目だ。強さなんて見当がつくはずもない。お屠蘇を不味そうに飲んでいた弟くらいしか、私の記憶にはない。がぶがぶ飲み続ける弟、どうせ姉ちゃんの奢りなんだから。そうだ、その通り。弟に今日は奢る。
正面の弟を見て、その横にいる男にも目を向ける。その横にいる男?違う、店員だった。彼は笑顔で私たちのテーブルにロースト肉も盛り合わせを置いてくれた。何の感動も起こらない。

「うまそ」
「そうね」
「思ってないでしょ」
「思ってない」
「これでモテるんだから、姉さん自分の顔に感謝しなよ」
「顔だけじゃないよ、色々創意工夫の末に大事にされてるの」
「あのショウタって人でしょ?」
「ショウタとは付き合ってないけどね」

弟は、ふぅんと言って、それ以上聞いてこない。ただフォークを一番手前の肉に伸ばす。指先が見える。爪は丸く短く整えられ、細くて白い指をしていた。わたしは弟がバスケ部をしつつ、書道の二段まで昇格したことを思い出す。体育館で、無駄なスペースをとって有難がられていた彼の文字は、

「完膚」


誕生日から、2日後。

少し持て余している一室。私はベッドから起き上がり、スマートフォンに手を伸ばす。レストランで蓄積されたアルコールが、体に不快な重さを纏わせる。サイドテーブルにあるスマートフォンまで、まくら1つ分の距離。ひどく遠い。

通知は22時以降鳴らないように設定してある。ラインを開くと、真っ黒のトーク一覧に、1~4の数字が縦列で並んでいる。
返信、という行為にでるのは億劫だ。それなのにスマートフォンに手を伸ばした自分。どうも解せないなぁとぐしゃぐしゃの髪の毛を再度搔きまわす。

テキトーなスクロールで画面上部に消えていく人間たちの名前。その中に「翔太」という文字もあった。止めて、うーん、とうなった後にタップ。

『しずちゃん、誕生日おめでと!』
『この前テレビ出てた映画、ちゃんとつまらんかった』

少し、笑った。鼻から小刻みな息が漏れた。

『ありがと』
『だから言ったでしょ』
『ごめんね。誕生日近く、ずっと予定入ってた』

そう返し、枕の上にスマートフォンを置く。体にのしかかる怠さを、腕立て伏せのような姿勢で押し退けようとする。
今年の誕生日は本当にひどかった。祝ってくれても嬉しくない人が、立て続けにアポをとってきた。このくらい丁寧に躱せると、自分を過信した。
愚かな自分。自信があって、ひとりで何でもやるのが当たり前だった。
重い。知らない内に、寝ている自分の上に、どんどん積み上げてきた。
それが何なのか。それが何なのか。
それが何なのか、分からないで生きてきた。
母が寂しそうな顔をすることも、理解できないままでいた。

通知が鳴る。朝の8時を過ぎると、通知が鳴るよう設定されている。
私は枕元に置いたスマートフォンを、再び手に取る。海を映したロック画面に、「翔太」のメッセージ通知があった。

タップして、開く。

『しずちゃん、空いてる日、ありそう?』

不思議なことが起こった。重くない。重くなくなった。
嘘みたいに体が軽くなって、スマートフォンを片手に、うつ伏せから仰向けになる。「翔太」からのメッセージは続く。

『誕生日、普通にお祝いしたいな』
『どう?』

私は理屈を挟む前に、感情が指を伝っていくような感覚を覚えた。
それは指を勝手に動かし、メッセージを作り上げていく。

『いいよ、行こ。今週末、空いてるから』

暗いベッドルームは、そのまま。カーテンの隙間から若干の日光が入ってくる。仕事なり、ランニングなり、買い出しなり、何かしらの形で、わたしを生かすために動き始める時間帯。
わたしはまだベッドにいた。その状況が嫌いではなかった。
嫌いではない。わたしはショウタとつながりたがっている。悪くない。
胸の奥から首筋まで、ぞわぞわっと鳥肌がたち、経験のない発汗が生じた。
気付かないうちに、次のメッセージができている。
生まれてから言ったことない。

『おすすめな店あったら行きたい』

#シロクマ文芸部

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