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「その書き方、俺もできそうだけどな」って思う時

 私たちの間に電車がすべり込んできて、ハセオの姿がかき消えた。
 けれど、そのくっきりとしたシルエットは駅がどんどん小さくなっていっても目の裏に残り続けた。

千早 茜『男ともだち』より

なんてことはない、ひとつの表現だと思うだろう。
自分も、その時の感情によって、こういう書き方を思いつくかもしれない。

ただ、最近書き物をしている時、人と人の別れ際を書くことが何度もあり、その時に上記の表現が出てこなかった。
とても悔しい。
「自分でも思いつけただろうな、この書き方」と感じて、でも実際にはそんな表現一度も使えたことがなかったと気付く時、自分がとことん無能だと思ってしまう。

うまく表現しようと思う時、いいものを作ろうと思う時、大抵ひどいものができる。
何か事件があって、全てを投げやりに考えて、半分酔っ払いみたいなテンションでPCにもたれかかって、タイピングに全体重をのせるとき、案外自分らしい表現ができたりする。

だから、自分の人生にはハプニングが、予測不可能性が、事件が必要だ。
だけど、いざハプニングが起これば、自分はとても苦しいと感じる。
自分がとことん嫌いになる。自分が好きな時に、素敵なものが書けたことがない。

少し、話がずれた。つまり、「読んでいる時には書けそうだと感じても、いざ自分で書こうと思うと何も書けない」現象があまりにも惨めだという話だ。

最近、同じように思った作品がある。佐野徹夜の作品だ。
「君は月夜に光り輝く」で人気作家となったが、その後の作品はあまり話題になり切らず、コアな若者ファンだけに追っかけられている男。

最近、弟と佐野徹夜を散々バカにした。
「高校2年生ぐらいのやつがこじらせて書きなぐったみたい」と笑った。
「頑張れば、俺らにも書けるべ」と笑った。
だが、いざ考えてみると、あの臭すぎるこじらせと美しい切なさが全然真似できない。

結論、何が言いたいかというと、「書きもしないのに、読んだだけで偉そうに語るな」ということ。

書かない者に評する資格なし、とはこれまた酷く頑固な主張でありますが、自分はそう思います。




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