傍観【短編】
この出会いは20分で完結した。20分の間に、彼女との時間は意味を持ったし、それで充分だと思っている。
そこは俺の住む町から1時間足らずで着く米軍基地のある土地で、夜になりかけた半端な暗さの中で、国籍の分からない者同士が路上で口喧嘩をしているようなところだった。
傍から見ている分には愉快で、何も害はなかった。いい見世物だなと思いながら、俺はひとり、のんびり歩くことができた。
街を気取って歩く人間にありがちなのは、カフェやバーに入って、見知らぬ人と交流をすることだ。それは小さな社会の中にすぐ溶け込むことができる、という社交スキルのアピールだ。多文化社会への順応性が、いちはやく出来上がっているという顕示をする。
俺は当然そんなことできないし、する必要もない。いくつもの素敵な出会いが待っている、という言葉に踊らされて、人は海外に出かけるし、仕事を変えるし、引っ越すし、マッチングアプリをする。俺は先に挙げた事項のどれにも手を出したことがないが、踊らされた末の人間がどうなるかは知っているつもりだ。
クラブから出てきて、気持ち悪そうにうなだれている女性がいた。クロップシャツが皺だらけになり、タイトなミニスカートはめくれて無様だ。彼女を心配するようにして、色黒な日本人男性と、無精ひげの欧米人が出てくる。片方は彼女の背中をさすり、もう片方は声をかけつつ、ポケットから煙草を取り出した。
筆記体の英語をネオンで光らせ、そのクラブの名前は何よりも目立とうとしていた。対照的に、俺は真っ黒でヨレヨレのシャツとカーゴパンツを身に着けていたから、暗くなり始めた通りの中で、絶妙に目立たずにいられた。
黒といえば、付き合ってから数か月の彼女に「なんで靴下全部黒なのぉ」と言われたのを思い出した。洗濯・乾燥の後に、ひとまとめにする必要がなく、適当に取り出して履いても違和感がないからだと答えた。加えて、黒なら洒落てもなくて、ダサくもないだろとも言った。彼女はつまらなそうに「ふぅん」と言った。
夜になり、どんどん俺は目立たなくなった。目立たなくなったせいで、騒いでいた集団が俺に気付いた瞬間、0.000002秒くらい沈黙することもあった。月に降り立った宇宙飛行士が、異星人といきなり出くわしたかのようだった。一瞬だったが。
俺はラーメン屋に入った。東京都で十数軒の店舗を展開しているラーメン屋だ。混んでいることが多いそのラーメン屋は、その町でだけ妙に空いていた。俺は入ってすぐに豚骨ラーメンとハイボールを頼んで、最も端のカウンター席に座った。それ以降、一切店員の方を見なかった。文庫本でも開こうかと迷っているタイミングで、ラーメンは出てきた。麺は細く、スープは暴力的なまでに濃かった。
そのラーメン屋を出ると、すぐ横に灰皿スタンドがあった。すぐ横といっても、そのラーメン屋が置いているわけではなさそうだった。かといって、横にあるのはクリーニング屋で、そこが置いてくれたわけでもなさそうだった。どの店の客専用でもない、ぽつんと佇む灰皿スタンドだった。
俺はそこで煙草を吸うことにした。しかし、煙草をポケットから取り出した瞬間に、躊躇った。
その灰皿スタンドがこの路地の中、妙に際立っていることに気付いた。その灰皿スタンドを照らす専用かのように、街灯はちょうど上部に設置されていた。歩道を示す白線は、スタンドの脚が点いている地点で丁度消えている。ラーメン屋とクリーニング屋は等間隔にその灰皿から距離を取っている。その灰皿スタンドのためだけに、3平方メートルのアスファルトが整備されたかのように思われた。
俺は、やっぱり駅前の喫煙所まで歩こうと思った。しかし、米軍基地の入り口を見に行くつもりだったことを思い出し、そこまで行って駅まで戻るのはかなり時間が必要だと気付いた。既にラーメンを頬張ってしまったし、俺の喉から胸にかけて、全細胞が煙を欲しているのにも気付いていた。そこまで先を見通しても、目の前の灰皿で一服することに、不思議な躊躇があった。
その時、彼女に話しかけられた。
「何してんの」
この灰皿で煙草を吸うか考えていたんだ。「はい?」
「何してんのかって、いやじっと灰皿見てるから」
「いや、別に」
「煙草ないの?1本くらいならあげるけど」
「いや、持ってはいる」
信じられないことに、ここまで話して、俺は声のする方に体を向けていない。
「なんだ、ますます意味わかんね」
声が俺の真横にきた。そしてライターの音が正面からする。
俺は煙草を一本取り出して、加えながら正面を見た。
彼女も俺の方を見る。
金髪で、前髪をあげている。目が大きい。鼻筋がしっかり通っている。ハーフか。目元にほくろがあった。顔は丸い。
「飲んだ帰り?」
質問、嫌いだ。
「いや、シラフ」
小さな嘘。
「じゃあ、夕飯帰りだ」
「そんなとこ」
「お兄さん、ハーフ?ホリが深い」
「今までで5,000回言われた、それ」
笑い。
「うける」
「何がだよ」
彼女が来たタイミングでなのか、しばらく前からそうだったのか、通りは少し賑やかになっていた。
店に入っていく人、店から出てくる人。
店から出てくる人の中に、騒ぎ踊るものが一部いる。それが始まった瞬間に、周囲の人は観客に変わって、その奇行を笑う。
そんな彼らを見て、俺は少し笑う。
「やばいね」
彼女は言う。笑ってはいない。
「こんなうるさいんだ、ここ」
「あ、ここらへん住んでるわけじゃないんだ」
「電車で来た」
「ラーメン食べに?」
「ラーメン食べに」
「変なの」
変ではないと言いたくなった。俺は唯一、この世界で変じゃないし、目の前の騒ぎまくる人たちの方が変じゃないかなと言いたくなった。俺は誰にもぶつからないし、騒がない。静かにしている。現に、上記のことを言いたくなっても、言わないでいる。まともで、変じゃない。
俺の、この主張には意味があると思う。そして、正面にいる女性が、俺と即興で会話劇をすることには、なんの意味もないと感じた。
俺は彼女に、連れの仲間などはいるのか、飲みにでも来たのかと聞いた。
「さっき解散した」
まだ夜の序盤だった。やけに早い解散だね、と言った。
「つまんなくなっちゃって、今日初めて会ったんだけど」
続けて彼女は、詳細をぼとぼと零した。
友人から紹介された服屋の男と、その知り合いの職業不詳の男と、途中から乱入してきたフィリピン人の女性2人の、合計5人で飲んでいて、話がつまらなくなり、ボディタッチがしつこいとも感じたので、抜け出してきたのだという。男2人は、彼女が抜けても一向に構わないという様子で、次の店にふらふら歩いていったとのことだ。
「つまんなかったよ」
「それはお疲れ様」
「まじでね、疲れた。行く前は楽しみにしてるんだけどね、どんな時でも」
「どんな時でも」
「そう、会ったことない人に会う時は勿論だけど、愚痴吐きたいだけの子とか、全然会いに行く」
「会いに行って、飲む?」
「飲むだけじゃないよ、カラオケも行くし、クラブも行く」
「元気だね」
「お兄さんは全然元気じゃなさそう」
「元気に生きていけない考え方をしてるからかも」
「そんな考え方捨てなよ。いや、どんな考え方かしらないけど、捨てたほうがいいかもよ」
「元気に走ってたらコケるから、歩いた方がいいし、なんなら立ち止まっていても、走っている人を見れれば、走るってどういう状態かは分かるし」
「だるい、だるい、だるい、途中でわかんなくなった」
お互いの煙草は、とっくにフィルター付近にまで火種が迫っていた。俺は灰皿にそれを捨てる。彼女も同じように捨てると、もう1本取り出した。俺もそれに倣う。通りにいる顔ぶれは更新され、また新たな騒ぎの種が生まれる。騒ぐ人は、次の日になれば、騒ぐんじゃなかったと言う。そうだろう。
「で、もう1回言って?」
「もう言いたくないよ、意味わからんって何度も言われたくない」
この発言は、彼女の気に障るかと思った。俺は一応、訂正する準備をする。
「意味わからんって何度も繰り返して、意味わかった時、結構好きなんだけど」
彼女は怒っていなかった。フラットに会話をしようとしていた。彼女に愚痴を零す人々の気持ちが分かるような気がした。
「じゃあ言うけど、意味わからんって言うなよ」
「言うよ、意味わからんかったら、意味わからんって言う」
俺は煙草をひと吸いする。
「えーっと、例えばビールを飲んだことがなくても、そのビールの臭いとかを一瞬嗅いで、これは不味いものだって思ったら、それをわざわざ飲んでみる必要はないし、飲んでみないと分からないって言ってくる奴がいたら、飲んだことありますよって顔して、Google検索で出てきたビールの不味さに関するコメントとかを組み合わせて返事して、一切飲まないぜって言いきっちまえばいいって思ってるの。まぁ実際ビール飲んだことあるんだけど、全然好きじゃない。美味しいやつ飲めば変わるとか言う人いるけど、全然分からなかった。飲まなきゃよかったって思ってる、今でも」
「わかった」
彼女は即答した。
「それは良かった」
「じゃあさ、私と美味しいビール飲みに行こうよ」
「話、聞いてた?」
「聞いてた。なんか、ビール飲ませたくなった」
「だるい」
本当に嫌そうな表情を作ってやった。彼女はケラケラと笑った。マジで嫌いじゃん、うける、と言っていた。
俺たちの前を男が通り過ぎる。俺たちの方をちらりと見て、舌打ちをしていた。猫背で、身長の高い男だった。不機嫌そうな顔で、俺のいたラーメン屋に入っていく。
「こっわ」
俺が言うと、
「話しかけてきなよ、何が気に障ったんかって」
「そういうタイプじゃないよ俺って」
「うん、そんな気がする。だから話しかけてきなよって言ったの。ビール飲みに行こうって言ったのも同じ理由」
「同じ理由なら、猶更イヤだね」
また彼女はケラケラ笑う。
俺も少し笑う。ここまで何も突っかかりなく、会話が進んでいることに驚く。その驚きは俺に、浮遊感を与えた。ヒヤッとする、スリルの施された浮遊感だった。
「じゃあ、飲みに行かない?」
彼女は煙草を捨てた。
「行かない、帰る」
俺も煙草を捨てた。
「おっけい、じゃあ代わりに、またこの通り来てね」
「それは分かんない」
「いや、来て。来たら、こんなラーメン屋じゃなくて、どっかの居酒屋とかバーとかパブとか入って。私、どっかにいるよ」
「こんなラーメン屋って言うなよ、美味いぞ」
「シラフでここのラーメン屋入ったことないな」
俺が駅まで行くと言ったら、彼女はついてきた。
「あのラーメン屋、入らないの?」
「飲み過ぎて、1人になりたい時に入って、太るのとか気にせず自棄になって食べたことはある」
「へぇ」
俺はカロリーを気にしてラーメンを食べたことがなかった。カロリーを気にする人の話を職場でも友人間でも聞く。聞きながら、頷き、笑う。その話題は徐々に薄まり、ありふれた沈黙の中に溶けていく。その溶解を、俺は便利だと感じていた。俺が安心して、他人から距離をとるために。
「へぇ、だけ?」
「大変だなぁと感じた」
「お兄さん、痩せてるもんね」
「太れないんだよ」
「うっわ、嫌われるでしょ」
「なんで」
「嫌われててほしい」
「人に嫌われること、ないよ」
「そんな人いませんよぉ」
改札まで送ってくれた。彼女は手を振っていた。彼女の手に触れることは、最後までなかった。最初にも言ったように、彼女と過ごした時間は20分だった。俺は、20分どころか、女性の手に触れるまで数か月は時間が必要だと考える性質だった。しかし、俺に手を振る名も知らない彼女は、そんな俺の性質を「意味わかんない」と笑ってきそうな人だった。
帰りの電車で、俺は米軍基地を見物に行けなかったと気付く。その代わりに、不可解な女性との出会いがあった。それが俺にとって、いいことなのか。悪いことなのか。
米軍基地のある、あの町で、俺は何度か散歩をした。飲み屋街には入らず、どの飲み屋も覗かず、あのラーメン屋と、ショッピングモールと、コンビニエンスストアにだけ入った。ただ、そこで一瞬生まれる店員とのコミュニケーションにおいて、笑顔を意識して作ってみたり、感謝の言葉を忘れずに言うようにした。ショッピングモールにあるファストブランドで、店員に秋物のおすすめを聞いてみたりした。おすすめと言われても、みたいな顔で、店員は困惑していた。俺は恥ずかしくなって、その日はすぐに帰った。
しかし懲りもせず、俺はあの町に行った。
相も変わらず、ぐったりと項垂れる酔っ払いは多くいる。
俺は、そんな人を、少し心配するようになっていた。肩に手を置きたくなる。
意味がわからない。俺は変になってしまった。
この変になった俺を表現するためには、あの日出会った彼女の名前が必要な気がした。
そして、俺はまたあの町に行く。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?