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『走馬灯のセトリは考えておいて』/柴田勝家 の感想

『走馬灯のセトリは考えておいて』/柴田勝家 

の感想。

(試してみたけど、ハヤカワ・オンラインの作品ページはいい感じに埋め込めないんですかね……)

Introduction

本作は、SF小説家・柴田勝家による短編集である。
6作品が収録されているが、表題作である『走馬灯のセトリは考えておいて』(以下『走馬灯』)が特によかったので、その感想を。

著者、柴田勝家について

変なペンネームだけれど、戦国武将の柴田勝家の輪廻転生というわけではないらしい。
時代小説を書いているわけでもない(たぶん)。民俗学・宗教学的なSF、ミステリ、アイドル、戦国メイドカフェなどが主戦場のようだ。
最後のやつだけじゃないか戦国要素。

余談だがこのペンネームは一度却下を食らったことがあったはずで、いつかのSFマガジンには綿谷何某という名前で載っていたという記憶がある。本名なのだろうか?
ここらへんの経緯はかつてcakesにまとまっていたようだが、そのサービス終了に巻き込まれて虚無へと解脱してしまったらしい。

本作について

生前と同じような反応を返す電子人形「ライフキャスト」。それを造る人生造形師ライフキャスター 小清水イノルのもとに、余命僅かの老女、柚埼碧から依頼が届く。その内容は、バーチャルアイドルだった過去の自分を「ライフキャスト」にしてほしいというものだった……。

ライフキャストというのは現実にあるようで、本文でも触れられているように、死にゆく人の生前の姿を残すためデスマスクを造ったり、動画に記録したりすることを指す言葉らしい。
本作の世界には伊藤計劃『<harmony/>』の WatchMe のような身体の常時監視装置があり、それが詳細なライフログを記録している。それらのライフログに加えて過去の動画や日記などから製造されるAIのようなものが、本作品で言うところの「ライフキャスト」であるようだ。

以下は公式のあらすじ

人が死後に自らのライフログから分身を遺せるようになった未来、“この世”を卒業するバーチャルアイドルのラストライブを舞台裏から描く書下ろし表題作のほか、コロナ禍によりウェブに移行した神事がVR空間上の超巨大競技へ進化していく「オンライン福男」、“信仰が質量を持つ”ことの証明に全生涯を捧げた東洋美術学者をめぐる異常論文「クランツマンの秘仏」など、文化人類学と奇想が響き合う傑作集。解説:届木ウカ

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人は死ぬ、Vも死ぬ

バーチャルアイドルは死ぬ……
まあそりゃ人間がやってるわけで当たり前と言えば当たり前だけど、なぜだかすごく新鮮な感がある。

バーチャルアイドルについては数人のライブ配信のアーカイブを見たことがある程度なので、あまり詳しくない(でも森カリオペが好きです……)。

それでも何となく感じているところによれば、彼らバーチャルアイドルは現実にいるものではなく、仮想のものである。演じられたキャラクターである。ここが通常のアイドルとは異なる点だ。

けれどバーチャルアイドルの人気は、通常の生身のアイドルと同様に、中の人のカリスマやエンターテイナーとしての資質に大きく影響されるように見える。
中の人の個性が肝心であるので(「魂」と言われるほどである)、演者を乗り換えていつまでも末永く活動できるわけではない。
つまり実態は全然バーチャルではないわけだ。キャラクターは仮想だが、そこに宿る人格は現実の人間のものなのだ。もちろん演じられたものではあるが。

これが単なるキャラクターではなく「アイドル」であるということなのかもしれない。ジェームズ・ボンドやドラえもんと比較できそうだ。

ところでバーチャルアイドルはSF的な幻想と相性が良い。トラッキングや3Dモデルなどのテクノロジーと緊密な関係を持っているためだろう。初音ミクなどが醸成してきた幻想と一部融和しているような感もある。

と書いた後でクリプトン公式を覗いてみたら、そもそも初音ミク自身が「バーチャル・アイドル」や「バーチャル・シンガー」を名乗っていたのだった。

その幻想の一つに<電子的な不死>がある。
「AIやロボットが人の一生よりも長い時間を生きる」という幻想。これはなぜだか至極当然のように響く。
たとえ設定上でAIやロボットでなくとも、仮想のキャラクターなのだから(現実の人間が脈絡なく死ぬのとは違って)、そう簡単には死なないだろうと思えてしまう。

そういうことから、バーチャルアイドルと死とが結びつかなかったのだろう。それが初めの意外さの正体だ。
しかし中の人がいる以上、バーチャルアイドルも死の運命を避けられない……。

生と死の境界で反復横跳びを

いろいろな境界線を踏み越えるお話が好きだ。
たとえば森博嗣の作品には、一つの身体に複数の人格があるとか、一つの人格が複数の身体を持つというようなモチーフが繰り返し現れる。身体という境界線を人格が越える。人格が身体に閉じ込められている必要もない。

本作では生と死の境界線が「ライフキャスト」によって越えられる、というか曖昧にされる。死者の似姿が生前のように話すのであれば、それは生きていることと何が違うのか、ということだ。

そこで魂の有無が問題になる。魂があれば生きていて、なければ死んでいると分けることができるわけで、魂がないくせに生きているようなのは紛い物だと弁別される。

しかし一体、魂の有無なんてどうやって測ればいいのか。
その解答は与えられない。そのせいでイノルと父の関係は摩擦する。結局、魂の有無は、信じるか信じないかによる、ということになってしまう。

果たして「ライフキャスト」を造りだす技術を知る理性的な主人公は、人形に宿る魂を信じてもいいのだろうか。科学技術を基礎とする世界に生きるわたし達が魂の存在を信じてもいいのだろうか。

うーん、何が言いたいのか書いてて分からなくなってきてしまった。ここらへんでやめてしまおう。

ちいさな世界の再魔術化

さて、どうやら人は「世界がどうしてこうなっているのか」ということに尋常ならざる関心があるようで、創世の神話はいろいろなところに残っている。
創世神話は宗教のなかで整理されて、多くの信者が納得できる体系的な形になっていった。
宗教が提供する世界説明の多くでは、人間にもきちんと存在意義が与えられ、世界と調和しており、生や死にも意味があった。

時代が降って、科学や合理性が勢いづくと、測定に基づくより正しそうな世界説明が与えられた。しかしながら、科学の世界説明に事象と因果はあっても意味がなかった。その現象が起こったのはなぜなのか、いったいどんな意味があるのか。わたしはなぜ生まれたのか、なぜ生きていくのか、なぜ死んでいくのか。それらの疑問に科学は答えない。
世界は調和を失い、わずかな合理的科学的真実と、おびただしい謎だけが残された。コスモスは崩れ去りカオスが溢れだした……。

雑な認識なのでもちろん間違っているのだろうけれど、こういうのを「世界の脱魔術化」というのだと思う。
そしてこれに反対する向きもあって、「世界の再魔術化」とか言うらしい。

本作の最後、イノルが魂の存在を確信するところで、これは再魔術化なのかもなと思った。とても個人的な形だけれど、自ら魔術にかかることでイノルの世界はより調和したものになった。

科学は確かに正しく美しい、それ自身の美と調和を持っている。
しかし合理性のみで生きるのは苦しい、というのも事実だ。
科学が提供する世界説明は、人間のことをあまり気にかけてくれない。ある銀河の腕の片隅の、ある惑星系のひとつに住む生き物の、喜怒哀楽・生病老死、魂や死後の世界の有無なんて、世界にとってはちっとも重要じゃないのだろう。
それを知ったうえで生きることに希望を見出せというのは、ちょっと無茶ぶりじゃないか?

だからこそ少しの魔術があるといい。

バーチャルアイドルの「ライフキャスト」が魔法をかける。イノルは父の魂の存在を信じられるようになる。
それは合理性の支配する世界のなかに死後の世界が復活することに等しい。合理性そのものである科学が造り出す「ライフキャスト」を鋳型として、イノルのなかに原始宗教が鋳造される。

科学をSFの領域まで持っていければ、合理性と再魔術化を両立することができるのかもしれない。これは心地よい幻想だ。

Conclusion

バーチャルアイドルに魂を宿すという経験から編み出される、小さくて個人的な信仰心。その萌えいずる様を描いたいい小説。
「ライフキャスト」というガジェット一本でいろいろなことが描けるものだ。

まったく触れなかったが、イノルが無性的に描かれているのは何か意図があるのだろうか。あと没後の黄昏キエラの所属についても語られていなかった。まあ細々したことだ。

ところで、ちょっと文章が長すぎる気がする。もっとダイエットしなくては……。


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